釣りつれづれ

⑥夏だけは自分の船外機付ボートで、仲間たちと金沢港。
そんなある時、海釣りに誘われて、今も海釣りが続いています。富山県の氷見からのハチメ(メバル)釣りでした。...

⑤電電公社の学校、鈴鹿電気通信学園
当時私の魚釣りの環境はこんなものでした。電電公社の学校、鈴鹿電気通信学園での一年間(昭和三十三年)はよく小さな池の鮒を釣りました。学園の中には沢山池があり、池を釣り歩き、タライに生かしておき、七輪ですずめ焼きにし、たれは色んな地方の味で作られ、晩の酒の肴にしました。学園の周囲には紡績会社が多く、そこにも、かならず池があり、池にはかならず鮒がいました。そして小さな池では10匹程も鮒を釣り上げると釣り尽くしてしまうこともありました。釣りの趣は異なりましたが楽しく、そして美味しく工夫して食べた思いがあります。

④木越の居候時代
戦争に負けて、昭和21年秋、満州から引き揚げ、父の故郷、金沢の郊外、木越に居候しました。...

③一家を支えたフナ釣り。
記憶と言うものは蘇えることを知りました。 58年を経た今ですよ!! それは私が通っていた黒河小学校へ迷わずに行ったこと、そして校舎の職員室、自分の教室へも迷わず行けたことでした。 そのほか、タクシーを使って黒河小学校から遠足に行った沼へも行けたことでした。 沼は少し埋め立てられており、水の色も緑色ではなく茶色でした。...

②父とよく行った夜釣り。
父は夜釣りによく行っていました。対ソ連警備をも兼ねてと言っていました。 (父の仕事は、旧満州国黒河省々公署警務庁分室、無線担当官、官位は警佐で対ソ無線傍受と暗号解読を極秘任務とし、時々私服や便衣で警ら活動もしていた)...

①私の釣りの始まり。
私の釣りは、小学校へ入る頃、父に連れられて、ハヤ、フナ、ナマズを釣りに行ったことが始まりです。だから私の釣り好きは父の影響だと思っています。そこは満州国「今の中国東北地方」大来街(今は松原市)の近くを流れている松花江でした。 満州は日本と違って小川を見ることはほとんどありませんでした。...