K-amur-boy

(Kアムールボーイ)

宮岸清衛の満州「黒河からの逃避行」3度の死線を超えて日本にたどり着いた10歳の少年の実話


北陸満友会10周年記念


2013年12月19日に発足した北陸満友会は、2023年おかげさまで10周年を迎えることができました。

生き残った者の使命として今一度語り部の活動を行い、あの惨劇を記録として起こします。


短歌集「満州の記録」発刊


「逃避行に ついて行き得ず 捨つるし子の 泣き叫ぶ声 母の狂う声」など170点の短歌をまとめた冊子を発刊しました。

ご希望の方には1冊500円にてご購入いただけます。(お申込みはFAXで)

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北陸満友会短歌集申し込みFAX用紙.pdf
PDFファイル 36.2 KB
令和元年6月5日北陸中日新聞朝刊に紹介されました。
令和元年6月5日北陸中日新聞朝刊に紹介されました。

黒河(満州国)からの逃避行

ボクは終戦当時10歳で、黒河という満州の街にいました。終戦の混乱の中奇跡的に中国残留孤児にならなかったボクは助かり親と合流できました。

私に奇跡は当時3回ありました。

奇跡が起きなかった子供たちは死亡したか、孤児になりました。

そして、中国人に助けられ中国人と信じて生きている人達がいることを忘れてはならないのです。

ボク、宮岸清衛(当時10歳)満州でのお話

ロシア(旧ソビエト連邦)と中国(旧満州国)を分ける大河「黒龍江(アムール河)

ソ連との国境の街、黒河街は北緯50度線上、黒龍江の河口から1500km上流にある極寒の地です。

 

小学校3、4年生のボク(宮岸清衛)は、春は住んでいた南崗屯の原っぱや湿地帯の海坊主に載ったり、夏は黒龍江の笩の上から魚釣りや笩と笩の間にロープを張って泳いだりしました。

秋は原っぱや飛行場近くの林でキノコ採りを楽しみ、冬は戦車防止豪の氷の河からスケートで学校へ、学校ではリンクで滑りました。



黒河からの逃避行


母(宮岸和枝)は93歳(平成17年3月17日)で波乱な生きがいある生涯を閉じました。

90歳の時介護施設へ入所しました。見舞いの都度満州時代を語り、聞き取り、記憶を記録することが私の務めと思い要点をメモしました。

次は少し書いた文を読んで聞かせ、追加訂正を加えながら、取りまとめました。

ソ連が日ソ不可侵条約を破り国境の街、黒河に侵攻し、そこから日本へ帰るまでの逃避行が約1ヵ年でした。

私と家族がどんな逃避生活をしたかを、この緑豊かな日本へたどり着くまでをまとめてみました。

また、各地の特異な事情についても記述してみました。

 

宮岸 清衛



黒河街南崗屯(省公省官舎)昭和二十年八月八日(康徳十二年)

右隣りの山岸さんの御主人が亡くなり、父は役所を休み、通夜と葬儀の準備をし通夜をすませて帰ったのは夜中でした。

その夜は黒龍江の対岸ブラゴブェスチェンスクの空は低く、青、赤、黄 緑色・・花火や花火の様なえい光弾・信号弾が途切れ途切れに上がり山岸さんの魂を見送っているようでした。

母は私達子供と外へ出て、山岸さん宅から父が帰るのを待ちながら何回もお祈りを捧げたことを覚えています。

山岸さんの奥さんは、学校の先生でした。御主人とは一度もお会いしたことはありませんが、省公署で少年開拓義勇軍の仕事と土地の測量だと聞いています。

山岸さんの葬儀はまだだったと思います、ご遺体はどうしたか、奥さんは避難したのかわかりません。  「戦史、満州第六国境守備隊」に通夜までは記録がありました。


八月九日、(ソ連、日ソ不可侵条約を破る)

父は朝、急に起き上がると、「何かおかしい」と朝食も取らず、役所へ走るように急ぎ足で出勤しました。

 出勤するとすぐ警務庁長から、ソ連宣戦布告につき以下を打電せよとの命令を受け、普通文(暗号でない)で黒河省内全警察署・全国境警察隊及び無線機を所有している開拓団、日系事業所等に打電したがすでにソ連軍の砲撃をうけた所もあったそうです。

「日ソ交戦状態にはいった。警察官並びに在郷軍人は第一二三師団隷下部隊に臨時召集されたので、最寄りの部隊に入隊せよ。家族及び一般邦人は軍の指揮官の指導下にはいって行動をともにせよ」

 そして、黒河省長(村井矢之介)は省公省前庭(正面玄関前)に全職員を集めて、次のような訓示をしたそうです。

・重要書類の焼却(暗号乱数表等の秘密文書類及び無線機の破壊、焼却など)

・八月十日に、孫呉省公省に集結すること。

・その他、強気の発言で職員の士気を高めようとしていたが空しいものでようだったようです。