黒河(満州国)からの逃避行物語

浮浪児になった

街には露店が多く開かれ食糧品も豊富にあったがお金のない日本人の避難民には過酷でした。

浮浪児の仲間になったボクは人種もさだかでない子供たち同士、野良犬のように露店等の食物を盗んで食べていました。

いや、かっぱらっていたのでしょう。一人でも、二人でも5人くらいだと大胆な少年強盗団のようでした。

万頭やソーセージをかっぱらう時は3人以上でやりました。

テントを支えてる棒(脚)を引き倒してテントが商品に覆い被さる隙に万頭やソーセージを出来るだけ多く、持っている袋か空き缶に詰め込み、3人はバラバラの方向に一目散に逃げ去ったものです。

充分な量を確保すると、浮浪児達がたむろしてる、半壊してる旧銀行の3階に集まりました。

そして収穫物(盗品)を分け合いむさぼり食べた。

大きな親分肌の大人のような男に万頭やソーセージの様な美味しい物を差し出すと喜んで、他の皆より沢山の色んな食べ物を分けてくれ、ボクを大事に扱ってくれました。

人種差別は全くない満人、漢人、朝鮮人、蒙古人ありだが、ロシア人はいませんでした。白系ロシア人の子供もいませんでした。

みんな日本人のボクには親切でした、そのためか隣の2階の女郎屋の男女の営みを狭い窓の隅から度々見せてくれました。

それから皆一斉にマス です、ボクはさせられました、オニイチャンのを!

そしてボクのを無理にマスしたオニィチャンは大きな女の子を連れてきて皆の前で笑いながら、あれをしました。

この3階の部屋は途中階段が壊れており大人は上がって来れないようでした。部屋は外気を畳や布きれで遮断してありましたが火の気はありませんでした。

暖をとるためにドラム缶の小さい物や空き缶、ビールビンに暖かいお湯を入れたものが幾つもあり、それに毛布や布きれを沢山被せて、寝ると、とっても暖かだでした。

家に帰る時は単独で美味しい物をかっぱらった時のみ、お土産に持って帰っていました。それはソーセージ、肉、鶏や卵でした。

父や母、小沢さん静子ちゃんもとても喜んでいました。

ご飯は高粱(きび)、精白した、白い高粱(コウリャン)でした。

精米してない高粱はパサパサで食べられなく消化も悪いため、母たちがビンに入れて棒で突いて白くしていました。

野菜は畑を歩くと収穫済みの白菜等の葉物を拾い集めていましたがだんだん遠くへゆかないと採れませんでした。

満人に襲われる危険性もあり母たちはすぐに止めました。ボクが飲食店の裏から拾ってくるほうがはるかに効率が良かったようです。

大豆はボクがソ連兵に捕まり倉庫に連れて行かれた時にふやけた大豆を沢山持って来たものを保存(凍らす)していたので助かったと母は言っていました。

私のかっぱらいは食べ物だけではありませんでした。ねじ回し(ドライバー)、のこぎり(普通の木用、金のこ)、ペンチ、ナイフ等もありました。

金のこは鍛冶屋で鉄の棒を切って工作に使うため。ドライバー、ペンチは電線を切ったり繋いだりして、今ならば盗電(電柱際の電線に繋ぐ)して満人の家に電気を付けるための工事用工具でした。

街頭で売っている食べ物の中に粟餅がありました。よく買って食べましたが相当に高かった。

粟餅は一輪車に乗せて布団を被せ、下から粟餅が冷めないように七輪に火を焚き温めていました。 粟餅は切り売りで天秤計りで計り、値段を決めていました。でも私には何時も沢山おまけをしてくれました、機嫌が良い時は砂糖を少し新聞紙に包んでくれました。 それは、粟餅売りの満人の一輪車の制作を手伝い、とっても喜んでもらったからでした。普通一輪車は木を工作して作ったものでした。 鍛冶屋で粟餅売り男が一輪車の車を木で細工した一輪車と自転車のパンクした車輪も持ってきました。

ボクと鍛冶屋とで鉄の棒を切り心棒にしてタイヤのチューブにタイヤ屑を挟み込、ノーパンクタイヤに仕上げました。 自転車の車の一輪車は軽くてチーズ(粟餅)売りの満人は他の満人に自慢していました。 ボクは自由奔放に浮浪児集団で盗みを繰り返して、食べ物は十分に食べていたつもりでした。 捕まって殴られ、足蹴りにされて地面に叩きつけられ、足で踏みつけられたりもしました、そんな時ボクは「アイヤーマァーマ、パァーパ」と泣き叫びました。すると必ず誰かがもうやめろと言いだして、唾を吐きつけられて終わりでした。こんなこともありました、地面に叩きつけられて、泣いていると、暖かい万頭を顔の頬にあてがいもう泣くなと肩を叩いてくれた満人がいました。

日本人が助けてくれたことはありませんでした。

日本人は私が満人の子供だと思っていたことだと思います。

安くて一番よく買って食べた食べ物は、ポーミー万頭(トウモロコシを荒く砕いた粉に、メリケン粉を少し混ぜて蒸す)、縦長の湯飲み茶わんを伏せたようで、茶碗と同じように空洞になっており、暖かい物を売っていました。

肉まんの10分の1位の値段で20銭か30銭位でした。今ボクたちが食べているトウモロコシ一本位のお腹の膨れ具合になったものです。

ただし、栄養失調になっている子供に食べさせると下痢をして死を早めました。

トウモロコシの形のままのものもありましたが、皮のまま蒸してあり塩味もなく、硬くて冬は日本人には食べられませんでした。

浮浪児を始めた頃には日本人の家の扉を叩いて、食べ物を食べさせてほしい、下さいとお願いしたが5~6家屋ほど廻ったが日本人は乞食の私には誰も食べ物を恵んではくれませんでした。

今思うと日本人は冷酷で日本人孤児と知りつつ、痩せこけた、汚い、ボロ切れを着た日本人孤児を追い払らっていました。

行く宛てや、食べ物もなく、放浪している日本人の子供を見かねた満人が引き取ったのでしょう。

女の子は別です、将来売ればお金になるからと育てたのです。

残留孤児は圧倒的に女性が多いのは、このためです、それと男は生きる力が弱いからでしょう。

道端や家屋の陰に行き倒れて死んでいるのは男の裸の子供ばかりでした。

きっと、親とはぐれたか、親が病気か、死に別れた子供たち でしょう。

親も子も死んだ記録にない、行方不明者は満州の田舎ばかりでなく、新京のような都会にも沢山いたことと思います。

もし満州が温暖の地だったらソ連軍の戦車や住民の暴動で死んだ以外は、生きて日本の地を踏んでいたと思います。

豚の腸にひき肉をつめる、腸の色は白色、これを釜にいれて蒸すと赤くなります。ドイツでは白色もありました。最高に美味しいものです、当時どうしても食べたいときには、釜ゆでして腸が破れて中身が出ているものを安く売ってくれと頼みこんだものです。再三売ってくれと頼み拒否されて、かっぱらったこともある。