⑤電電公社の学校、鈴鹿電気通信学園

当時私の魚釣りの環境はこんなものでした。電電公社の学校、鈴鹿電気通信学園での一年間(昭和三十三年)はよく小さな池の鮒を釣りました。学園の中には沢山池があり、池を釣り歩き、タライに生かしておき、七輪ですずめ焼きにし、たれは色んな地方の味で作られ、晩の酒の肴にしました。学園の周囲には紡績会社が多く、そこにも、かならず池があり、池にはかならず鮒がいました。そして小さな池では10匹程も鮒を釣り上げると釣り尽くしてしまうこともありました。釣りの趣は異なりましたが楽しく、そして美味しく工夫して食べた思いがあります。

 

 

学園から金沢へ帰ってからは、釣り竿をかついで池をさがして鮒を釣りに、近くの山へ入り色んな貯水池でこれ又、鮒を釣り、鯉も釣れましたがまずくて食べられないので逃がしました。

 

竿を担いで山へ入る頃から渓流釣りに変わっていきました。それも近くの山のふもとの渓流だからウグイ、オイカワ、ヒメマス等人々があまり食べない魚でした。でも私は少しは食べました。

だんだん上流に行くようになったその頃からバイクが流行し遠くへイワナ、ヤマメ釣りにと変わって行きました。

 

 

渓流には危険なときもしばしばあり或る時は雪渓から川へ転落して、溺れそうになったり、熊に出会ったこともありました。