④木越の居候時代

櫓を漕ぐ私と弟の洋。河北潟で 金鮒釣りへ。 昭和33年秋、私 23歳、弟10歳。
櫓を漕ぐ私と弟の洋。河北潟で 金鮒釣りへ。 昭和33年秋、私 23歳、弟10歳。

戦争に負けて、昭和21年秋、満州から引き揚げ、父の故郷、金沢の郊外、木越に居候しました。

 

私は田んぼの手伝いをしました。私の最後の仕事が晩のおかずを獲ってくる事でした。それは、鮒が主でした。そして、ボラ、蟹、鯰、雷魚、烏貝、しじみ貝等も釣ったり、捕まえたりしました。それらは全て料理して、その日のおかずにと夕食の団欒の一つにもなりました。

 

鮒は、10cmくらいの小さなものは、味噌で煮ます。小骨が邪魔でしたが、味噌に鮒の味が付いて美味しいおかずでした。大きめの鮒とボラは、焼いてから砂糖と醤油で煮たものが美味しかったです。

 

鯰や雷魚は、照り焼き、たれが味を左右しましたが、最高に美味しいものでした。蟹は上海蟹と同じように塩茹でか、酢醤油で食べると最高でした。しじみ貝は、金腐川、浅野川の下流で獲れました。朝の味噌汁の実になったものです。烏貝は田圃の中や水路にも生息しており、沢山獲って、身を出して佃煮のように煮込むと、弁当のお菜となったものでした。

 

だから私は、舟ならば、艪[山下1] でも、かいでも、竿でも、どんな舟でも、漕げるようになりました。社会人になってからも休みの日には、河北潟へ釣りに通いました。食べて美味しく、引きの強い金鮒を釣りに。

 

昭和四十年頃からは河北潟の水の汚染がひどくなり川魚は食べられなくなり金鮒釣りからは遠ざかりました。その頃日本経済の向上に合わせるように湖や市街地を流れる川の淡水魚は食べられなくなりました。

 

水環境が回復した今でも、もう河北潟には金鮒はいなくなりました。今、私は食べない魚は釣らないことにしています。

戦争に負けて、昭和21年秋、満州から引き揚げ、父の故郷、金沢の郊外、木越に居候しました。

 

私は田んぼの手伝いをしました。私の最後の仕事が晩のおかずを獲ってくる事でした。それは、鮒が主でした。そして、ボラ、蟹、鯰、雷魚、烏貝、しじみ貝等も釣ったり、捕まえたりしました。それらは全て料理して、その日のおかずにと夕食の団欒の一つにもなりました。

 

鮒は、10cmくらいの小さなものは、味噌で煮ます。小骨が邪魔でしたが、味噌に鮒の味が付いて美味しいおかずでした。大きめの鮒とボラは、焼いてから砂糖と醤油で煮たものが美味しかったです。

 

鯰や雷魚は、照り焼き、たれが味を左右しましたが、最高に美味しいものでした。蟹は上海蟹と同じように塩茹でか、酢醤油で食べると最高でした。しじみ貝は、金腐川、浅野川の下流で獲れました。朝の味噌汁の実になったものです。烏貝は田圃の中や水路にも生息しており、沢山獲って、身を出して佃煮のように煮込むと、弁当のお菜となったものでした。

 

だから私は、舟ならば、艪[山下1] でも、かいでも、竿でも、どんな舟でも、漕げるようになりました。社会人になってからも休みの日には、河北潟へ釣りに通いました。食べて美味しく、引きの強い金鮒を釣りに。

 

昭和四十年頃からは河北潟の水の汚染がひどくなり川魚は食べられなくなり金鮒釣りからは遠ざかりました。その頃日本経済の向上に合わせるように湖や市街地を流れる川の淡水魚は食べられなくなりました。

 

水環境が回復した今でも、もう河北潟には金鮒はいなくなりました。今、私は食べない魚は釣らないことにしています。