黒河(満州国)からの逃避行物語

北安から汽車に乗る

北安はハルビンの北、鉄路333km。黒河は北安の北300kmです。1986年特別許可で北安まで行き日本電電公社員として北安電話局を視察しました。テレホンカードの説明が大変でした。

父は足が悪いように偽装して杖をつき、清彦を背負って 昌子の手を引っ張っている。 清介は大きなヤカンを持っている。ヤカンには 飲み物でなく、小銭札や小銭玉をいれてある。
父は足が悪いように偽装して杖をつき、清彦を背負って 昌子の手を引っ張っている。 清介は大きなヤカンを持っている。ヤカンには 飲み物でなく、小銭札や小銭玉をいれてある。

列車は客車でした、満人の警察官のおかげで列車の中央、客車の中央付近に座席を確保することが出来て、子供たちを安心して座らせることが出来ました。

私達の車両はほぼ満員でした、荷物を取られた人たちは悲惨なものでした。母はリユックサックを取られましたが、中には証券類と母の着る物だけでた。

長い汽車の旅ではまず、食べ物が底をつきます、お金を取られた人は食べ物を買うことも出来ません。

私達は小額紙幣や貨幣ばかりでしたが、無事でしたのでこの少額紙幣を使い食べ物を買いました。

清介(次男)がヤカンに1円札や5角札を詰め込んであったのが助かり小額の食料品の買い物に約立ちました。10円以上くらいになると、一円札や5角札は受け取りを拒否されました。北安駅は無事に出発しましたが1時間程して、汽車は原っぱの中で止まってしまいました、機関士がお金を要求しており、各車両から、日本人の長老がお金や貴金属を集めていました。私達にはお金がなくボクがソ連兵から取り上げた腕時計を差し出していました。ハルビン付近の駅では沢山の満人が乗り込んできて、汽車が動き出すと3人くらい一組になって、日本人一人一人を相手に刃物を突きつけて、襟、腹巻、ポケット等をさぐり、お金が縫い込んであるかを探り、刃物で切り裂き、お金を巻き上げていました。

日本人は3等国民です、抵抗することは出来ません。ハルビン駅に着くと、満人の横暴にたいし、私達はソ連兵を雇い満人を追っ払ってもらうことにしましたが、先立つもの、お金か時計を出せとのことです、

またボクが腕時計を2個出していました。

ソ連兵は車両の入り口付近に立ち、波打ち際の波のように、暴徒を追っ払ってくれましたが、いかにも、形式的でした。それでも少しは被害を食い止められたと思います。

ハルビン駅を出発すると、乗っている満人は少なく、日本人は車両の中央付近に集まり、略奪に対して防御しました。

私達の家族は満人の警察官の誘導により車両の中央付近に座ったため、被害は最小だったようです。

汽車の沿線には所々に死体が散乱していました、特に子供が多かったようです。

汽車は駅でもない所に何回も止まりました、止まったところで満人から食べ物を買いました。べらぼうに高かったような気がします。

機関士は汽車を止めて何回も私達に金品を要求してきたそうです、清衛は6個持っていた腕時計を使い切っていました。

汽車はなかなか出発しません、金品の要求に満足しないのでしょう、新京に着きました、なんとか奉天まで行こうと皆で話して金品を用意したのですが、要求額に達しなかったのでしよう、どうしても駄目だとのことで、新京で降ろされました。

北安から新京まで一週間程かかったと思います。

此の間に日本人は殆どの荷物を奪われ、北安在住の日本人が郵便局や銀行の現金(満州国紙幣)を山分けしてしまったことを、満人は知っていたのでしょう、執拗に私達の列車を略奪したのです。

暴徒は汽車の中でも道端でも   容赦なく襲ってきました。
暴徒は汽車の中でも道端でも   容赦なく襲ってきました。

郵便局や銀行が閉鎖され持ち逃げしたお金は遠隔地から北安へ避難した開拓団等の人たちにはわたりませんでした。この人たちの悲劇はここから始まったのです。沢山の病人が出ていたようです。新京駅前の広場で何時間も待たされ皆お金を奪い尽くされ食べ物を買うことが出来ない人もいました。たとえお金を持っていてもお金の無い人の分まで買って与える余裕はありませんので、皆空腹を我慢して、子供達だけに食べ物を買い与えていました。私達の子供、ボク(長男10才)は百日咳が直り元気でした。清介(次男6才)、昌子(次女5才)、清彦(3男2才)は長旅でぐったりしていました。

父は新京の知人を訪ねるべく、足の偽装も忘れて誰彼となく、聞きまわっていたようです。

新京の人たちは朝鮮へ逃れた人が沢山おり、また朝鮮へ行けずに新京へ帰ってきた人達もいたそうです。