黒河(満州国)からの逃避行物語

父、ソ連軍の捕虜からの脱走

第123師団松風へ入隊(1945年8月14日)

ここで各人に軍の小銃を渡されて、私達警察隊の大部分は満州第123師団松風15204部隊(歩兵270連隊)連隊長は大田喜一大佐だった。(原隊は千葉県佐倉市)

その日の内に日系150名程に軍服と軍装一式が支給され、歩兵270連隊に分散配属され、父は第6中隊に配属されたが銃は各人に1丁、手榴弾は各人2個づつ支給され、帯刀(日本刀)も許可され(私物)、その他の武器は、迫撃砲3砲程が30人に1箇所程、軽機関銃が近くに2丁程在った陣地は山の中腹に掘った壕だった。

装貧弱な日本軍は攻撃には出ず、また、ソ連軍戦車も攻撃せず砲を我が陣地にむけたまま通過していた。こちらが攻撃をすると、戦車は我が陣地に一斉に砲撃した。まったく昼間は手が出なかった。

17日、下の道路を行く敵戦車を攻撃する、武器は我が中隊には少なく、他の隊が攻撃を加えると十倍くらいのお返しが飛んできて、我が砲は沈黙せざる得ない状況だった。

日本側が攻撃しなければ、ソ連軍も攻撃はしなく、奇妙な戦争だった、ただ友軍の野砲・山砲や加農砲は徹底的に潰されていた。

そんな時佐々木さん(黒河、南崗屯の官舎右隣り)が「俺を撃ってみろ、俺は今年、付いているのだ、4人目が生まれ子は男だったから嬉しいのだ!」と叫んで豪の上に飛び乗ったとたんに、砲弾にとばされ戦死してしまった。

佐々木さんは碁打ち仲間で、情報警察官の私の見張り役だったことを此の陣地で彼は父に打ち明けていた。

その話の中で「今年はいい年だから戦争に負けても俺は幸せになれる。」と、本気で話していた。

父たちは時々夜間斬りこみ隊を出したが損害ばかりで戦果は少なかった。

19日に連隊副官が来て、敵は白旗を掲げ軍使を来させるから注意し、撃ってはならぬと各中隊に伝達して回っていた。

敵は孫呉飛行場に居り、周りの陣地から包囲されている状態で、日本軍の勝利かと思った。しかし現状はそうではなかった。

武装解除され天皇陛下から頂いた銃を草むらに無造作に投げ出した哀れな姿。

20日に我々は何が何だかわからいうちに武装解除され、270連隊は北孫呉陸軍官舎に収容さたが、父は2大隊、森山君は何故だか3大隊に分けられた。しかし2大隊と3大隊は自由に交流が出来、収容所内での行動は自由だった。

同僚達とソ連行きだ、いや日本へ帰るのだ、黒河から船でアムール河を下りウラジオストックから大型船で新潟か函館へ着くのだ、いや大連まで鉄道で南下して大連から博多だな。噂かデマの交錯した話に明け暮れていた。

特に、特務機関、警察、憲兵関係者は危険だな名簿はみんな押収されているだろう。身分は直ぐにソ連側に知られ、尋問、拷問、銃殺だな。

脱走しょう等の話が、氾濫していたが、その間にも、特務機関関係者や警察関係者の逃亡者が多く、ことごとく捕らえられ尋問されたあと銃殺されたらしいとの、噂が流れていた。

命を無駄にするなとの指令が出された。

分室でのただ一人の部下森山君を脱走に誘ったが中国語は出来なく、身体も弱く、2000キロの逃亡は無理と断わられていたので、黒河の材木会社の社員になったばかりだと言いとおせ。

絶対に警察官だと言うなといい含めた。