黒河(満州国)からの逃避行物語

父、ソ連軍の捕虜からの脱走

昭和25年、私は中学一年生であった。夏休みのある日、自転車を借りて父が入院している金沢の住居から四キロ程北にある、結核療養所「医王園」へ父に会いに行った。

MPと日本の警察官が乗っていたジープに出会い怖かった。あわてて自転車を道の草むらに倒してジープを通した。

「医王園」へ砂利のタイヤの跡だけ土が出ており、あとは草が生えていた坂道を、自転車を押して上がっている途中、アメリカ軍のジープが坂道を下りてきたので道端の草むらに自転車を倒して道を譲った。

ジープにはMP(進駐軍)と日本人の警察官数人が乗っていた。

父は木造のバンガローのような個室が四つある一つの部屋のベットにぐったりと横たわっていた。父は「おお来たか」と喜びを表現することもしなかったが、嬉しさは床から起き上がる行動から読み取れた。

父は「今アメリカ軍のジープに会わなかったか!」と最初に言った。

次に「畜生めが。俺が書いた6冊の、大学ノートを持って行きやがった!「でもお金を3000円呉れたぞ!」と言った。

そんなに憤慨している風でもなく、100円札の束から500円を抜いて2500円を二つ折りにして私に渡し、「皆で美味しいものでも食べろ、洋はどうしている、もうおしゃべりしているか!

ポン菓子のお客さんはあるか、カキモチは焦がさないでうまく出来るか、砂糖を持って来る人は沢山いるか、橋爪さんは口金の鉛の取り換えをうまく出来るようになったか等」矢継ぎ早に話しかけ私達の生活様子を聞いた。

それかまた独り言のように、喋りまくった。「家族のことは此の大学ノートに書いてある」と手にとって示した。

「結核の手術の事も書いたぞ、少しでも早く治りたいからな!」何回でもの手術に対する期待は大きいようだった。ノートの文章は医学の専門語が多く、身体の挿絵も多くあり私には理解できなかった。

「MPが持っていった大学ノートには、黒河の白系ロシア人、赤系ロシア人は誰で、白系のあいつはたぶん赤系に寝返っていると思う。

金日成、4人の影武者の2人の行動や居場所はとか、古北口で同じ警察官だった「王影遊」氏の履歴も書き終戦後新京で偶然会い助けてもらい南長春警察署長になっていたこと。

彼は人道的な考えの持ち主であり、五族(日本、朝鮮,蒙古、満州、漢)の人たちとも平等に付き合っていた人物だから、中国の統一に貢献した事だろうとも、書いた。

暗号無線の仕事も、ソ連軍の悪態も、日本軍の欠点も書いた、特に下からの意見や、他の部署の意見や日本にとって、好ましくない意見は、抹殺してしまうこと等、沢山書いてあった」そうであり清衛や世間の人たち特に日本の今の官憲に読んでもらいたかったと言っていた。

締めくくりは、「何とかもう一度元気になって、どんな仕事でもいいから思う存分働きたい!」と涙を流しながら何度も何度も、話し「もう一度思う存分働きチャブダイを囲んで皆でご飯が食べたい!」と、瞼の涙をぬぐい男泣きしていた。

私も父の死は覚悟していたろうが、どんな手術でも我慢して生き抜きたい、これまで死線を何度も越えてきたのはいったい何だったのか、今度も死線を越えて、生へ向かっているぞと、生きる執念を私に語ったような気がした。

この時代結核は伝染病であり隔離され、子供の面会は母から強く禁止されていたが、どうして私が父に会いに行ったのか今でも不可解である。

虫の知らせでしょうか、これが最後の父との会話と五体との対面になったのです。

昭和26年1月26日父は死に、遺体は母と母の父、父の姉が金沢大学病院医学部の遺体安置室へ、献体だったので後日遺骨が帰り、父の実家で近親者のみの葬儀だった。

※分室とは・・・警察・憲兵・特務機関が一体となった満州国の特殊官検組織。

当時ソ連のGPU(ゲーペーウー)。アメリカのCIA。ドイツのゲシュタポ

に似た組織で権力があった。