黒河(満州国)からの逃避行物語

北安よさようなら

此処へ来て使ったことのないもの、三輪車、什器、ビン類等。私達は黒河、孫呉から来たので品物はあまりないと言って断っていました。

汽車で南下するのはたぶん、明日ではないかと近所に話したら、お金を沢山持っている人は始末に困っていました。どうやってお金を持つて行くか100円札ばかりならいいが、10円札、1円札、5角札、1角札、10銭玉1銭玉等小額紙幣や硬貨に困っていました。宮岸家には子供が4人もいたので、小額紙幣を沢山貰い、子供の洋服のポケットや襟すじ等合わせになっている部分には縫いつけて持たせました。10銭玉、1銭玉は子供のあらゆるポケットに入れました。1角札が沢山あり、ヤカンや飯ごうに押し込みました。

昭和20年9月中旬です、いつでも北安から汽車で南下出来る様に準備しなさいと指示があり、まず、お金をどのようにして持って行くか?皆さんは服の襟や縫い合わせになっている部分に縫い付けていました。

母は父と50枚程の10円札を二人で分けて持ちましたが、心細い金額だったでしょう。

北安在住の人たちは銀行や郵便局から沢山のお金を貰っており、持ちきれないほどの小額紙幣を沢山私達も貰い,これ等を服等に縫い付け、沢山お金を持っている人たちと歩調を合わせました。

子供達にも沢山持たせ、紙幣は子供達のどのポケットにも入れました。

リュックサックは大きく膨らみ、子供達は遠足に行くような気分ではしゃいでいました。

子供達にも大きなリュックサックを作りお金や衣類を詰め込みました。

広場に集合の号令がかかり、沢山の荷物を背負った日本人避難民が集まりました。

日本人が引き揚げた住宅に押し入り家具等あらゆる品物を略奪している満人。
日本人が引き揚げた住宅に押し入り家具等あらゆる品物を略奪している満人。

日本へ少しでも近かずくため日本人は満人達が虎視眈々と荷物を狙っている中を北安駅へと長い列を作った。

空き家になった家々には満人が荷車を引いて押し入っており、この隙に早く北安駅へと急ぎ、行列が長くならないように懸命に集団に付いて行きました。

北安駅に近くなると私達の行列の両側を満人が取り囲み私達が背負ってる荷物を略奪しようと虎視耽々と狙っていました、よろけて、行列からちょっと離れただけで、リックサックを奪い取られた人がいました。

駅前広場からは両側にソ連兵、蒋介石軍の兵士、満軍、警察官が並び私達の首実験をはじめ、荷物の略奪は激しくなりました。

満人が指を日本人避難民に指すとソ連兵が駆け寄り、その人を列から引き出し、通訳が話している間に、満人の群集は、その人の荷物を奪い取ってしまい、荷物がなくなると開放されていました。

次から次へとリックサック等が奪われました、満人の群集はもっとはげしく、鳶口や針金で荷物を引っ掛けて我々から荷物を奪っていました。

父は足が悪いように偽装して杖をつき清彦を背負って昌子の手を引いている。清介は大きなリュックに手には大きなヤカンを持っている。
父は足が悪いように偽装して杖をつき清彦を背負って昌子の手を引いている。清介は大きなリュックに手には大きなヤカンを持っている。

母も奪われました、中には債権や金権証書が入っており、全財産が奪われましたが、負けた国の債権や金権証書は後日知ったのですが、紙くずにもならなかったそうです。

父には満人の警察官が歩きながら父に質問していました、父の知ってる警察官で一度だけ黒河の自宅ですき焼きを食べさせたことがあったそうです。

ボクは覚えがありませんでした。この警察官は密告しなかったばかりか、群集から指を指されない様にボク達家族の側を離れず汽車まで送ってくれました。

私の荷物が取られる前にこの警察官に合っていればと残念でした。

荷物を奪い取られた人たちはソ連兵に嘆願して、騒いでいましたが、ソ連兵は笑みを浮かべるだけで全く取り合ってはくれませんでした。

私達避難民の荷物は大部分が奪われ2割ぐらいしか残らなかった様でリュックサック、手荷物など全部を奪われた人も5割はいたでしょう、悲劇です、逃避行の最初の出鼻をくじかれ皆途方に暮れていました。