黒河(満州国)からの逃避行物語

北安の避難生活

北安駅には午後遅く暗くなってから着き、宿泊のための官舎には灯火管制の暗い道を1時間以上も延々と泣き叫ぶ子供たちを叱咤しながら歩きやっと、各戸が割り当てられました。 3家族10人の人が泊まりました。

北安での生活の最初の晩は畳の部屋2間と台所があるモダンな官舎でした。ガス台も電気も水道もありました。

母たちは次の日ガスを使うことを勉強し、文明の武器に喜びを満喫して、料理がとても楽しかったことを覚えていると語っていました。

次の日からは家主の若奥さんと母親は他へ行くと出て行きました。後から聞いたのですが子供ばかりの中にはいられなかったそうです。

私たちは吉野さんの奥さんと子供2人とで8人となりました。

丁度8月12日、ボクの満10才の誕生日頃からボクは元気を取り戻し始め、男手が一人増えて母は心強かったそうです。

北安へ来てから15日までは、満人が売りに来る野菜や豚肉、ソーセージを買いあさり、ガスと云う文明の利器を使って料理講習会をしているようなものだったと当時を懐かしんでいました。

八月十五日(終戦記念日)

私の家にもこのラジオがありました。 ダイヤルのつまみがよくとれました。 直しは清衛でした。
私の家にもこのラジオがありました。 ダイヤルのつまみがよくとれました。 直しは清衛でした。

私達にとって決して忘れることが出来ない1945年8月15日の北安は晴れていた正午に天皇陛下の放送があると早朝から伝令が走り回っていた。

ボクはソワソワと弟妹達と夏草が生え茂っている広場で赤トンボを追いかけ、母達大人もソワソワしていた。

誰かが正午に、広場にラジオを持ち出して近所の人達2~30人程が集まりました。

正午に大人達は、直立不動の姿勢でラジオに向かい日本から送られてく天皇陛下の声を聞いていたが何とも小さな声で、工場の騒音の中で雑音混じりの高い声に聞こえ、お経のようでもあった。

ある人たちは泣き崩れていたが、母たち避難民はただ呆然としているだけでした。

今なら天皇陛下の玉音放送が終わってから、国民は何をすべきか、今後の見通しなど評論家や行政の人たちが出て、大騒ぎになる筈でしょうが、そんなこともできないくらい、ショックは大きかったのでしょう。

もしそうしたとしたら、そこに集まった人たちは、あまりのショックに聞く耳を持たなかったでしょう。

なにせ天と地がまさにひっくり返ったのだから。

それにしても満州は平和だった。8月15日迄は! 天皇陛下の玉音放送

1945年「昭和20年」8月15日正午に騒然となったあと、私達、黒河から北安へ疎開させられた人達も北安の人達も天皇陛下が何を言っているのかよく分かりませんでした、ただ日本が戦争に負けたことだけはその場の雰囲気から分かりました。

それでこれから、どうする、どうしたらいいの!

大人たちはソ連兵が怖くて、 井戸へ水汲みに行かない。 子どもが水汲みの主役になりました。
大人たちはソ連兵が怖くて、 井戸へ水汲みに行かない。 子どもが水汲みの主役になりました。

身の軽い吉野さん、水野さんの奥さんとが近所を走り廻って聞いてきた答えは、天皇陛下は私達に早く日本へ帰って、日本の再建に尽くしてほしいと言ってるって!

何が本当で何が嘘なのか、これからどうしたらいいのか全く分からなく混乱・騒然としている状況のようでした。

晩、遅く床についてから大人達三人の妻達は夫がどうしているのか、どうなるのか、帰ってくるのか?

ソ連軍の捕虜になって殺されるのか?

ソ連へ連れて行かれるのか?

今、此処にソ連軍がきたら私達女は、ソ連軍の慰め女になるのか?

子供は集団でソ連へ連れて行かれ育てられ大人になってロスケ(ロシア人)の慰め女に!

男の子はロスケの奴隷になるの!

じゃ私達は今どうすればいいの、人間の終わりなの!

ロスケの女になるの!

ドイツは負けてドイツ人の男は捕虜になってシベリアの奥地で重労働をさせられており、女はドイツに進駐したソ連軍の慰め女になっているそうよ! とめどもない話に眠れない夜を過ごしたそうです。

八月十六日 あくる日近所からの情報で満人(現地中国人)からの略奪に備えましょう。ロスケの強姦から身を守りましょう、となったのです。

各戸、おもいおもいの対策をしました。戸締りは外から容易に入れないように、窓や裏木戸は子供しか通れないように板切れで釘止めをしました。

母達女は強姦されないように、まず女に見えないように!

女であっても年寄りに見えるように!

女でも醜い女に!

まず、髪の毛を丸坊主に三人が交代・交代でバリカンで丸坊主に!

そして丸坊主だけではと、青坊主の所々にカミソリで剃りました!

皆、笑うに笑えない、涙がとめどもなく溢れ出て顔は涙で、ぐしゃぐしゃ、

今度はおばあさんと醜い女なるため、顔、首筋や乳房になべ墨を塗りました。なべ墨を何時も塗っておくのは大変だからと、各人が顔クリームの瓶にクリームを混ぜた、なべ墨を常時持ち歩くことにしました。

こんな姿夫に見せられますか!

子供達を遊ばせるにも、どうして遊ばせるか、ただソ連兵が問題でした。

 

遊びの代わりに「ソ連兵ごっこ」をしました。

ソ連兵が家の中に入ってきたら各人が子供達を座って膝の上に抱き、つめって泣かせる、練習を日に何回もしました。

5歳の昌子は水野さんに貸しました。水野さんが膝に抱いて泣かせていました。

八月二十日 ボクは元気に外を飛び回って色んな情報を持ってきましたが断片的で悲観的なことばかりでした。

ボクには外で見張りをさせ誰かきたら知らせる役目を与えました。