黒河(満州国)からの逃避行物語

父、ソ連軍の捕虜からの脱走

黒河

父、清太郎は終戦を孫呉の関東軍第123師団第270連隊で迎え、ソ連軍の捕虜となりソ連への途中、脱走し北安で家族と合流した。

日本の日の丸戦闘機でなく、ソ連のYAK-3戦闘機が赤い星をつけて上空に飛来した。

いずれの日にかソ連軍の侵攻は予想していた。

昭和20年8月9日、昨夜の左隣りの山岸さん宅の通夜のため、遅くなったにもかかわらず早朝夜明けと共に目が覚めた、何か胸騒ぎがした。

朝ご飯も食べずに役所へ走った、途中、黒河街上空にソ連機二機が侵入、父は身をかがめながら走った、数千メートルの上空から市街地へ機銃掃射を2、3回繰り返し対岸ブラコベ方面に飛び去った。

被害は不明、この銃撃音は私や国境に住む日満住民には不吉で不安な予感がした。無電室へ入るなり受信票を見るとソ連軍の宣戦布告文を見た、とうとうくるべき時が来た。

早々に官房・警務庁・開拓庁全職員は官房前広場に集合せよと伝達があった。

全員緊張の面持ちで集合した。

村井矢乃助省長は次のとおり訓辞をした。

1. 今朝ソ連と交戦状態に入った。

2. 重要書類は焼却処分せよ。

3. 午後4時まで黒河駅前に集合、孫呉に引き揚げ孫呉を第一線とす     る。(引き揚げ列車は合計4列車出発)

以上が訓示の内容であった。

警防科には無電・有線の二室があり、通信股と称し、股長は小林技士兼警佐だった。

股長は8月5日公用で奉天省に出張中の出来事で股長の所在は不明のまま終戦になり平成の現在になっても行方不明者扱い。

父、宮岸主任兼警佐が無電班の責任者として指揮を執り有線班は続木技士が責任者となった。

無電室には宮岸・森山警長・新採2名計4名の体制で、極度に人員不足の内容で新採の2名は7月中旬満蒙開拓少年義勇軍から採用した。

無線の経験は皆無である。

毎年1回春に無線学校から採用があり、1ケ月くらいの講習で実務についた。20年は無線学校の生徒は軍が全員徴用として、治安部警務司では採用不可能となった。

現地で採用して、研修養成することになった。

それが、満蒙開拓少年義勇軍から採用だった。

孫呉へ引き揚げるため全員でかかり書類の焼却、携行不能の無線機、50ワット2台、3ワット1台、受信機2台、その他付属品多数を書類同様警務庁舎広場で破壊して、他の利用を不可能にした。

父は無線機の破壊状況を見て、森山君どんな心境かと聞いたが、複雑な胸中か答えは返ってこなかった。

整理がすべて終了したので、昼頃、父は馬に乗って警察の夏の戦闘服に赤の刀吊にサーベル姿で家へ入るなり母に、「ソ連が宣戦布告した、午後4時までに黒河駅へ行き汽車に乗れ」と言った。

携行品は食糧と雨具は必ず持てそれと債券と預金通帳を持って行けと言った。

街の中の満人には変化は見られなかったそうだ。

午後3時ごろトラックに3ワットの携帯無線機一式を乗せて黒河駅へ行く。黒河駅前広場にはすでに日系、鮮系など官民が多くなり、乗車すべく待機していた。父たちは無線機とともに有蓋貨車に乗車した。

警務庁の職員と電話交換手も民間人も同一貨車だった。列車の前半は客車で婦人・子供が多く、男子は後半の貨車に乗った。

汽車は午後9時ごろ出発した、黒河街は赤々と燃えていた、街全体か何処かは分らないソ連軍の攻撃によるものかも知ることが出来ない。

途中朝水駅付近で停車、周辺の日本軍が若干乗り込んだ。翌朝早く無事孫呉に到着し15歳から50歳までの男子(健康なもの)は全員下車するよう伝達があった。

この人たちは軍の引率で北孫呉陣地へ誘導され、現地召集取り扱いとなった。老人・子供・婦人は北安方面にさらに引き揚げることになり、そのまま列車に残った。

客車の中に宮岸の家族も乗っていた、清衛を医者に診てもらったが途中まで命があるか朝鮮人の医者は首を横に振った。

父はそっと母に耳打ちをして僕が死んだら皆の迷惑にならないように、列車の外に捨てなさいと云ったそうです。

俺は必ず生きて帰ると家内に別れを告げた。