父はソ連軍に捕虜になった時の話をベットの中から唐突にした。
鉄条網の内側の生活は退屈でドイツ兵の様にシベリヤ行きが大半の話と噂やデマが蔓延
していた。収容所鉄条網内は日本へ帰る話でもちきりだった。
マンドリン銃に睨まれて黒竜江へと歩かされる日本軍捕虜の隊列哀れ。
23日朝突然第2大隊は、行軍出来る軍装にて広場に集合させられ1000名程の日本兵捕虜は、北孫呉の旧日本軍倉庫へ連れて行かれ、食料、カンパン、缶詰、羊羹等を配給された。
また衣類も沢山持って行けと許可された。
背嚢に食料が納まった順にソ連軍はトラックを先頭に、マンドリン兵士に護衛・監視され10人づつにまとめられて、30人に2人マンドリンを持ったソ連兵が隊列の両横に付き歩かされた。
捕虜の軍服は新品が多かったが隊列は敗残兵の集まり、ソ連兵はボロボロの破れた服だが最新式のマンドリン銃で私達に睨みをきかせ我々の足を急がせたが、棒切れで杖をつく者、足を引きずる者、新品の軍服を着た日本軍捕虜の姿は奇異だった。
父の背嚢には拳銃と手榴弾2個が入ってる、どんな時に使って脱走しようか、あまりにも早いソ連行きだったので考えもまとまっていなかった。
隣を歩いてる同年輩の男に、ソ連ヘ抑留されて、強制労働させられては今年の冬はもたないな、脱走しないか、拳銃と手榴弾2個持ってる。
何かいい方法はないか、と誘ってみたら、彼は警察官で、捕まえたロスケを何人も殺したから、尋問されれば、命は無いな、一緒に逃げよう頼むと言われ、もう一人いないかな、と言うと彼が誘うと言い、隊列の中をあちこちと歩き回り同行者を探してきた。
此の道路は黒河への道、路肩には戦車のキャタピラの跡が深く刻み込まれており、路肩と平坦な平地には蛸壺があったと、思われる場所は、戦車がその場で回転した跡が点々と残っていた。
丸く戦車が回転した、中心には日本兵の遺体がミンチにされていると思うと戦車の恐ろしさがこみ上げてきた、もう1日武装解除が遅かったら父も切り込み隊の順番が廻り、爆雷を抱えたミンチになっていたかも知れないと言い人の運命は紙一重だと嘆いていた。
すこし若い男が一緒に脱走したい、と私の横に並んで話し出した孫呉の憲兵隊にいて、現地人をよく捕らえて連れてきたから、不安だと洩らしていた。
薄暗くなっても歩みは止まらなかった、夜9時頃、隊列を縮めて、10人づつ固まって輪になって寝ろと前から伝達があり、脱走志望組の3人は隣同士に座り、軍靴をぬいで、靴下を乾かしながら、夕食のカンパン等を食べ、脱走作戦を話し合った。
ソ連兵は靴下を履いていなかった日本軍の捕虜の履いている軍足を剥奪して喜んでいた。
マンドリンのソ連兵が、我々が靴下を脱ぎ乾かしてると、靴下を呉れと銃の台尻でこつくので、1足差し出すと、喜んで、靴を脱いで、足に巻きつけてある,煮占めたような布着れを解き、軍足履いて喜んでいた。
それからが大変、各ソ連兵が軍足を出せと皆にマンドリンを突きつけていた。ソ連軍には靴下の常識がなかったのかな、満人も靴下を履いていた人は少なかった、満人に靴下をやると、とても喜んだものだった。
トラックは荷物を満載にして、夜もアムール河の方角へと走っていった。
作戦は決まった。
翌日24日の夜には最終手段を使って脱走することにした。父は収容所で衛生兵からヒマシ油を3瓶とクレオソートを3瓶手に入れてあり3人に1瓶づつ配った。
24日薄明るくなると、ソ連兵が大声を出して銃の台尻でこつき起こされた。排泄は10人単位で林の中でした、遅いと側まで来て早くせよとこついた。
朝食のカンパンなどを食べ終わるとすぐ歩かされた、小興安嶺のすそ野らしく道路はすそ野を廻りながら続いていた、これを過ぎると遥か向こうにアムール河が見えるはずだ。
此処から我々3人は牛歩戦術に出た、お腹を抑えながら、マンドリンのソ連兵に休ませてくれと、何度も何度も頼んだが、駄目だった、でもお腹を押さえて、皆から遅れ遅れて最後尾になってしまった。
二人のソ連兵は付きっきり、お腹を押さえながら歩いた、後ろからトラックが来た、ソ連兵はトラックを止めた。此の日本兵を先頭まで乗せてゆけと話していた、我々3人とソ連兵2人の5人は無理やりトラックの荷物の上に載せられた。
1時間程で先頭に追いつき降ろされた。日本の衛生兵が来てお腹の具合を聞いたが3人とも同じ答えをした、お腹がキューと痛くなりお腹を押さえないと、歩けなく便意はあるが、急がすので出ないのだと、話したら通訳が2人のソ連兵に充分に大便をさせろと言い聞かせていた。
衛生兵はクレオソート1瓶を呉れた。私はおおよそのロシア語は分かっていたが全く分からない振りをしていた、又他の2人にも黒河省公省の電話修理担当だと話してあった。
3人はソ連兵2人を伴って林の中で時間をかけて大便をした、タバコは3本ぐらい吸っただろう。
すっきりはしたが、治っては駄目。
此処でかねてから打ち合わせたとうり、ポケットから、ヒマシ油を取り出し瓶の半分程飲んだ、しばらくは普通に歩いたが、今度は本当にお腹が痛くなり便意を感じ始め、お腹を押さえてゆっくりと牛歩戦術で歩き始めた。
再び最終列になった頃、大きな赤い夕日が落ちるのを見ながら、歩いたが便がお尻から少しずつ流れ出した、他の2人も同じだった、本当に気持ち悪くて歩けなくなった、臭いもしてきた、ズボンの下からも垂れ流しになった、ソ連兵に見せた、彼らもビックリして、前を護衛してる仲間を2人呼んだ、その2人も鼻をつまんだ。
最後尾から100メートルくらい離れた、道路が曲がってる近くの道端にしゃがみこんだ、路肩の後ろは幅が2メートル程が平らで50センチ程下がって、さらに2メートル程が平らの草原で草丈は1メートル程もあった、その後ろには小川があり湿地帯になっていた。
道路の向かい側は草丈1メートル以上もある小高い山が左の方が高くなっており、右側は少し低く、上がって降りればまた道路に出る場所だった。
ソ連兵が2人増えて4人になった、50センチ程下がった草むらに、道路に向いて両手をついてうつむきに座らされた、4人のソ連兵はなにかこそこそと相談していた、声が小さくて良く聞こえない、でも彼らの意見の違いからか、声がだんだん大きくなり、内容がわかってきた、殺してしまえ、銃は使わず短剣でやればどうか、どんな風に刺すんだと若そうなのが聞いていた。
そっと見ると短剣を逆手に持って首を刺せと言っている。私は他の2人に短剣で首筋を刺すと言っているぞ。
父は俺が声をかけたら、後ろ足で、奴らを湿地帯へ蹴飛ばして道路の向こう側の草むらへ走り林の方に逃げるんだ、と小声で言ったら了解の返事が来た。
落ち合う場所の相談も、何処の誰ともしっかりと名乗り合ってもいなかった。
3人の捕虜の刺殺執行を目前にマンドリンを構えて後ずさりするソ連兵。
ソ連兵が1人道路に上がってマンドリンを構えて後ずさりしながら戻って行った、歩きが止まった。
父の肩を捕まえ、まさに、短剣を抜こうとしている。
父は今だ「逃げろ」と声を出した、父は捕まれた肩から背嚢をかなぐり外してロスケに押し付け、後ろ足で思い切り蹴飛ばし湿地帯に飛ばして脱兎のごとく向かい側の草むらに走り込んだ。
他の2人も脱兎のごとく草むらに走り込むのを感じた、マンドリンの銃声が耳の後ろから聞こえたが、父は自分自身がどうなったか、父は何かにつまづいて、宙に浮いたのは知っていると言っていた。