北安の街を離れて汽車で南下した、しかし、その汽車は満人の暴徒による略奪の連続でした。一週間程かかって、やっと新京に着きました。
新京駅前の広場で何時間も過ごし、皆疲れに疲れていました。前進の号令がかかり、私達疲れはてた、避難民の群れは、長い長い行列を作って、1時間ほど歩いた時元日本人小学校に着きました。
ここで当分過ごすのだと伝達があり、私達は各教室を割り当てられ落ち着きました。
でも、毛布を持っている人は僅か、食料も無い、そして、ソ連軍から、ロシアパンとスープの配給を受けて、一週間程パンのみの配給が続きました。ボクがパンのみみを上手に貰ってきたのが助かったそうです。塩汁に付けて膨らまして食べたのです。
昌子が病気になりました、高熱が何日も続きました、子供達が沢山病気になりました。
ハシカが原因の余病によるものでした、残り少ないお金で、子供達に食べさせました。
特にボクが北安で時計の修理で稼いだソ連軍の軍票が役にたちました、何処の店でも通用しました。
10月16日昼昌子が息を引き取り ました。 力つきたように、目を見開き、こっく んと首をうなだれたのが死でした。 昌子はほぼ5年の寿命でした。 昌子は日本人でありながら日本の土を踏むことはありませんでした。満州国人で終わりました。
次男の清介が学校へ入学する前の年でした、清介に読み書き等を教えていると、側に来て何時も、兄の清介よりも先に理解してしまっていました。また、おちゃめで、目のくりっとした、頭がとても良い、とってもかわいい子でした。
わが子の死はとても、悲しいものですが、当時、ボクはどんな悲しみかたをしたか記憶にはありません。今も時々、最近の出来事のように、思い出します。女の子だったのか、父は特に可愛がっていました。
今生きていれば、還暦をすぎ、孫も居ることでしょう。
私達の集団では最初の犠牲者かもしれませんでした。そのあと、子供達が次々に死んでゆきました。
死んだ昌子は父が背中に背負って、新京の南湖を取り巻いている石畳の道路の南湖の南側の小高い丘の上に埋葬し、小さな土饅頭となりました。 周囲には沢山の土饅頭が赤い夕陽に照らされて傾いた墓標が淋しそうにうなだれていました。 火葬にする余裕はなく土葬にしました。ただ、爪と髪の毛は、日本へ持ち帰り法名も付けて法要を営みました。