昭和21年2月頃、猛家屯駅付近に国府軍(中華民国・蒋介石、現在の台湾政府)の紺色かグレー色の服の兵隊が集結していた。 トラックは元日本軍の物らしき国防色、猛家屯駅にも大砲を積んだ貨車や装甲列車があり戦争が始まる雰囲気はあるが、切羽詰った状況には見えなかった。
でも要所、要所には土嚢が積んであり、兵隊達はただ、ぶらぶらしており、緊張感はなかったように思った。
今考えるに国府軍は正規軍でなく匪賊、馬賊、満軍(旧満州国軍)を集た地方軍のため、軍律厳しい軍隊でなかったのかもしれない。
北から八路軍(現中華人民共和国・共産党軍、毛沢東)が南下して来ており八路軍は長春から撤退準備をしていたらしかった。
軍律厳しい日本軍を見ていた私には奇異に感じた。チヤンジャングイは戦争が始まるから家へ帰って、外へ出ないように教えてくれた。
家でも母や、小沢さんの奥さんは町で戦争が始まると言う噂を聞いてきており、寝ている父に話をしていた。
父は私達に空き部屋の畳を持って来いと指示し、私達は2階の各空き部屋の畳10枚以上を持ち込み、窓は全部畳で目隠しをして、足元は2重畳に、5人が1部屋に集まって銃弾を防ごうと準備をして、2部屋に分かれて寝ていた。
夜中外に人の声で飛び交い、遠くで銃の音や迫撃砲の炸裂音がしだして、だんだん近づいて来た。
5人(父、母、ボク、小沢のおばさん、静子ちゃん)は1部屋に集まり、敷き布団も、かけ布団も持ち込み頭から、被って銃弾の行き交う音を聞きながら父からあの音は迫撃砲弾が炸裂した音、今のは機関銃の音、ピュピュと建物をかすめてるのは小銃の音、とボクに説明をしてくれた。
家の周りでは人が小走りに走る音が幾つも聞こえて、銃弾の飛び交う音も激しく、戦争の音がしてきた。
ボクの家の建物にも銃弾がプスップスッと当たりだし、父は手榴弾が、この部屋に投げ込まれたら、布団を被せるか、外か、隣の部屋へ投げ捨てろと皆に(母、小沢さん、静子ちゃん、に私)話していました。
手榴弾は約7秒から10秒で爆発するようにセットされており実戦になると、大抵の兵隊は信管を抜くとすぐに投げるからあわてずに拾って外へ投げ返しなさいそうすれば、投げた人の場所で爆発すると言っていました。
パンパンと遠くで豆をいるような音、ドーンと大砲の音、機関銃の音もしてきた、父はパンパンパン連続間隔が広く低い音はチェコ式水冷式の古い元日本軍の機関銃だなと話していました。
静かになってきたので父が立ち上がって畳を立てかけてある窓の隙間から覗いて、ああまだやってるな、と言った私も恐る恐る窓の外を覗き込んで見ると、映画で見るように兵隊が1人づつ、建物から建物へと走って行くのが見えました。
銃撃戦を観戦してはいるが銃撃音がしないと恐怖感が薄れて来た、ボク達のコンクリートの建物に銃弾が当たる甲高いドスンとした音がした。
ボクの足の脛(スネ)を棒で殴られたように、倒れ込んだ、足の骨が砕けたようになり、唸った。
暗がりの足元に熱い銃弾が落ちていた、機関銃弾だった先端が少し潰れていた。
建て掛けてある畳に大きな穴があいていた、銃弾の抜けた穴だとすぐにわかった、私の脛に当たって止まったのだ、銃弾もここで力尽きて此処に落ちたのだった。
こんな奇跡があるだろうか、脛は1晩濡れ布を巻いて冷やして寝たので回復したようだ。
しかし、今も此の傷跡は残っている。今は中国内戦の証人と思っており痛みも恨みもない。
翌朝広場には、100人ほどの黄緑色の薄汚れた軍服を着た八路軍兵士が幾つかの焚き火をして、その周りで暖をとり銃を抱えて眠っていた。
満人の家々には赤い共産党の(現中国国旗)旗が掲げられていた、あたりは赤の色が目立っていた。
朝早く扉を叩く音がしてボクが戸を開けると銃を肩に担いだ八路兵が立っていた。言葉がうまく通じない。
ボクは父が病気だが、と断って、なお父を呼んだ、父はいかにも病人らしく床から起き上がって応対をしていた。
八路軍は兵隊達を官舎の空き部屋に寝かせて欲しいと頼んでいたのであり、承知したと、父は答えて各部屋の畳は弾除けの為に此処にもあるから持っていって敷くように説明していた。
言葉は南方系だと父は言っていた。ボク達にはとても丁寧に対応してくれました。
ボクが畳を各部屋へと案内し、広場の兵隊達は各部屋に入ったのか少なくなっていた。
彼らはボク達の部屋の前を歩く時は静かに歩いていたのが印象的だった。
兵隊はボクが見ている2階の通路に来て、電気がない、つかない、何とかならないかと言っていると思った。
ボクは父を呼び、再度兵隊の話を聞くと、各部屋の電気が全く付かない何とかならないかとの相談だった。
満州語と異なる方言の中国語も父は聞き分けることが出来て嬉しがっていた記憶がある。
父は息子(清衛ボク)に教えるから、一緒に協力してくれと話していました。
父はボクにヒューズは細い針金で繋げ、ただしゴム手袋を必ずせよ、ソケットの無いコードは線が何処かに接していないか調べて離してしまえ、ソケットは二部屋に一つで我慢してほしい、電球は君達が調達しなさいと言っていました。
終わったら父さんに報告しなさい。
兵隊二人がボクと一緒に来てもらい手伝ってくれた、兵隊の手伝いはボクの手が届かない所に肩車をしたり、ボクが線を絶縁したり、ソケットを取り付ける時等でした。
電球は父が兵隊に紙に書いて買ってくるように、手渡していた。電球は猛家屯駅付近の店を教えていたようだった。
父からは電気の線を触る時は、必ずゴム手袋をすること、線は片線だけ触ること、かならず靴を履き身体と地面を絶縁しておくこと、以前から父が電気いじる時に私に言っていた。
6戸か7戸の各戸に一灯ずつ電球を付けて、父に報告した。
父はふらふらの身体で一階の階段下の電源箱のむき出しの線の一つを繋いだ。
各戸をのぞくと、幾つかの電気が付き、他は父がボクにソケットのスイッチを入れて来いと言い、兵隊の肩車で電球を取り付け、次々と明かりがつくと拍手が出て、日本人の少年よ、ありがとう。(リーベンシャオハイ、シェイシェイ)
進駐して来た共産軍兵士達は電気の無い田舎の兵隊だったのか、10才のボクより電気の知識は乏しかった。しかし、ボク達敗戦国民の日本人への対応は兵隊とは思えない優しさがあった。
父はあとからお金をもらっていた。全て共産軍の軍票だった、疑心暗鬼で受け取っていた。
幾ら貰ったか知らないが買い物は満州国紙幣の半分以下の値しかなく、店により受け取らない店もあった。
軍票は、トランプのババ抜きで、ババを掴まされた様なもので、出来るだけ早く使わないと紙くずになってしまうのです。
政権者が変わるとお金まで変わってしまう。 日本はアメリカに占領されたが軍票の使用は少なかったと聞いている。
ヤルタ会談の約束のひとつにアメリカ、ソ連、イギリス、中国等に分割占領されていたら、今日の日本と全く違う日本になっていたかも知れない。
事実5月に正規の国府軍が新京を占領した時には共産軍のお金は使えなくなり、変わって国府軍の軍票が出回りだしました。
でも満州国紙幣は一番価値があり、引き揚げる時にもまだ使える貨幣でした。
広場では、さす又に組んだ鍋釣りを幾つもつくり、火を焚いて、炊事を始めていました。
兵隊達は井戸の近くで野菜を切っていた、やがて、死んだ馬が荷車に載せられて運び込まれ、天幕を敷いて、その上に引きずり下ろし、3人程で、またたくまに解体し、あっという間に、不要な部分は(頭や骨・内臓等)何処かへ持ち去っていってしまいました。
二階の通路から八路軍兵士達の炊事の様子を眺めていた、馬の解体は、残酷に思ったが、怖いもの見たさで見ていました。
今だったら顔をそむけて いただろう。
美味しい臭いがしてきた、臭いに誘われて、階段を下りて、馬肉を油で揚げている側まで行き欲しそうに立っていました。
八路兵が側に来てシャオハイ(少年)よ食べたいかと聞かれ、我要、ハオチーと応えたら、何人分欲しいか(チーガレンマー)と聞かれ5人だ(ウーガレン)と応えると答えました。
馬肉を揚げてる兵に何か指示をしていた間もなく油紙と新聞紙に大きな、メリケン粉で包んだ馬肉の揚げ物を五つ包んで、薄汚れた布でもう一度包んで私に渡してくれた。
馬肉の天ぷらを八路軍に貰ったよ、と家の中へ持って入った、ストーブの前で広げた、皆で不揃いな大きな馬かつを眺めて、ため息をついた。
なんとも言いようの無い香ばしい臭いが家中に広がっていた。さぁ、暖かい内に食べようと父が皆に催促した。
高粱のお粥の晩御飯まで待てなかった。
ソースも無かったが塩をまぶして、不揃いな五つの馬かつを包丁で食べやすい大きさに母が切り、父は此処は固いかもしれない、此処は脂身だから柔らかいだろうと皆に教えながら、指差していた。
皆夢中になって食べた、硬いとも柔らかいとも言わず、旨かった、今上等のトンカツを食べても、あの時の美味しさにはかなわないだろう。
馬かつだけで満腹になった。広場ではまだ、馬かつを揚げていた。私はとっても美味しかった(テンハオチーラ)と馬かつを揚げている兵隊に礼を言った。
どういたしまして(ピエコーチ)と返事が返ってきた。
そうして今度は生の馬肉を一塊貰った、大きな肉だった、母は大切に何日も出し汁にしたりして使っていた。
今思えば逃避行の中で最高の食事だった。
八路軍は軍律が厳しく、服装に似合わず礼儀正しくキリッとしていた。
服は綿服をキルティングした黄緑色だが服の袖、肘、膝等はピカピカに油光がしており、ツギが当ててあり二重、三重のツギ当てしてある兵士もおり、破れたままの服を着ている兵士はいませんでした。
外套は綿入り、靴も綿入りのキルティング靴底は古タイヤ?極寒の満洲、新京は-20℃以下だったろう、八路軍の兵士達は広場に三ばさに組んだ銃の側で、一休みしている兵士もいた。
炊事をしている兵は、馬かつ揚げを作ったり野菜を切ったり、煮たり、鍋の火を絶やすことなく働いていた。
お湯を沸かすためにヤカンを借りにきた兵士も礼儀正しく、頭を下げて礼をしていった。
その他の兵隊士は各空き部屋に静かに入り仮眠をしていました。
昨夜の八路軍の攻撃で、流れ弾に当たって、斜め左側一階の日本人の2歳の、男の子供が喉に直通弾を受け即死したそうです。
この棟に子供はいなかったようです、ただ一人の男の子が1人が不運にも他人の戦争で直接犠牲になったことはなんとも言いようの無い悲しさです。
この子の母は何時も、こんな歌を歌っていた「ねんねこっこねんねやねんねこっこや、・・・わ―れときてあそべやおやのないすずめ・・・」が今でも私の耳についています。
日本人の被害は此の子一人だけだったようだ。一人っ子を亡くした奥さんの、しょぼくれた姿がかすんで目に浮かぶ、日本へ帰ったのかなぁ。
母は「遠い昔のことは名前も忘れた!」と云いすて、自分の死んだ子供3人を瞼の裏に隠していたように見えました。
ボク達が住んでいた官舎は砲弾の穴が二箇所あり一階が相当に破壊されており道路に面しているため攻撃を受け易い位置にあったらしい。
誰もいなかったのは此処の電車区の日本人は、ソ連が宣戦布告した日に列車で朝鮮へ逃げたそうですが、38度線を越えられなかった一部の人達はまた新京に帰った人達もいたそうです。
危険がいっぱいな郊外の官舎には誰も帰らなかったらしい。住んでいた日本人は新京市街地に住み家を見つけていたらしい。
父のようにソ連軍から脱走した警察官や憲兵、その家族、学校等の集団生活に耐え切れなくなった人達です、その中にはソ連兵に強姦されて、集団にいられなくなった女性達が、二家族いたらしい。
給水塔は新京の市街地にも沢山あり、今でも残っているものがあります。
給水塔の水は氷結しない、なぜならば、井戸水を汲み上げて給水タンクに送り給水タンクには氷結しにくい材料で保護をして少量の電熱を通してあるため氷結しないとのことです。
広場に井戸があるのは奇異だったが試験掘りした井戸であり、満人達が使っていた。
給水塔の水管理とボイラーの管理は満人でした。日本人が逃げた後は官舎も破壊されており管理費も誰から貰うのか分らなくて満人は父に嘆いていたそうです。
便所も水洗でしたが冬は水が出なく熱いお湯を流して溶かして流していたが、私が石炭を沢山掘るようになってからは、凍らない程度に、満人はボイラーを焚いてくれました。
ぬるいがお湯が出せて皆助かったようです。
父は電気も配管工事もして入居家族の部屋だけには電気と温水を通す努力をしていたようです。
石炭堀りは順調になり、同じ官舎の人々も時々私と一緒に石炭掘りに行きました。
猛家屯駅構内への石炭堀はソ連兵が出入りしており皆は敬遠していましたでも、ボクについてくるとソ連兵の監視役に役だったそうです。
掘りかたを覚えて石炭が豊富になり、ボイラーを焚いたら、氷ついていたのに、水道も出るようになり、ぬるいが温水も出て、水洗便所も使えるようになり、官舎の住人に笑顔が出てきました。
猛家屯駅には机や椅子、機械類、自転車等を満載した貨車が沢山止まって、北へ向かっているのでソ連兵は私たちには無関心、石炭堀は安心でした。
近所の人たちに石炭を掘りに連れていってほしいと頼まれて、母や小沢さんと共に連れて石炭を掘って官舎の暖に役立てました。
母は私のソリに積んで売り歩いていたので、私は満人の子供達(子孩=シャオハイ)「浮浪児」の仲間入りをして、また、街の中を徘徊していました。
ソ連兵の規律はGPU(ゲーペーウー「憲兵+秘密警察」が巡回を始めてからは少し安全になりました。
でも時々建物の物陰からいきなり飛び出してダワイダワイとマンドリン銃を突きつけて大人の日本人、満人区別なくお金を出せとせまり、お金や時計を渡すと、乱暴はしなかった。
だから満人達の屋台店も日本人の即席屋台も隣同士くっつき、店を出していました。
それに比べて八路軍は礼儀正しかった。
電気が付くようにした時にもお金をくれた、ただし、軍票でした。
本当の浮浪児、即ち親から見放されて帰る家もなく、孤立した浮浪児は見かけなくなりました。寒さが厳しく街頭で寝ることが出来ない季節のため、誰かに救われたのか、いや、栄養失調で凍死したのか定かではありません。
沢山の子供の死体を目撃していました、ボクには、死んだとしか思えません。
ボクの通っていた黒河国民小学校の生徒はインターネット上には誰も居ません。パソコンを使えない世代の人が多く定かではないが、死んだ生徒は沢山見ました。
生きて帰った生徒はただ一人一緒に日本へ帰った「小沢静子」さんです。ミス甲府となり活躍した才女でしたが10年前60歳で他界しました。
今月15日(2008年2月)に静子さんの父小沢小善治さんが亡くなり私も父と慕っていた方で黒河から の知り合い人はこれで全て他界してしまいました。
合掌。