猛家屯駅付近の満人の家から赤い毛沢東軍の旗又は赤い布が無くなっていた。猛家屯駅構内には貨車の機関車も客車もなく淋しい駅構内になっていた。 踏切番のジャングイ(旦那)やタイタイ(奥さん)は戦争が始まるから帰りなさいと子供たちを家の中には入れてくれなかった。鍛冶屋のジャングイにも同じことを言われて、頭のない鶏やら万頭をもらって隠れ家に帰った。魚捕りが上手く出来るようになった頃、砲撃の音が遠くに聞こえるようになり、南湖へも行けなくなり、外出は控えていた。 が、猛家屯駅へ行くと、駅構内には装甲車やジープを積んだ貨車が大砲やトラック等を下していた。 ビクビクしながら満人の踏切番と眺めていた。立派な兵器に立派な服装、これぞ、中華民国の中央軍だと思った。
帰って父に話したらアメリカの軍装であり、兵器も近代的だからアメリカが勝つと言っていた。その晩私たちの上を砲弾が道り市街地が燃えていた。弾は頭の上を道って行くのだから、これぞ戦争の高みの見物だった。
翌日車の轟音が響き渡り国府軍の分列行進が始まった。立派なものだった。
国府軍の正規軍がアメリカ式に武装して堂々の入場行進を見た。
日本軍の行進も何回か見たが、ジープを先頭に色んな車両が道り紺色の軍服を着た国府軍はステキだった。 中国人達は各家にそれぞれの国の旗を持っており上手に使い分けて今度は「晴天白日旗」を掲揚していた。 国府軍の凱旋行進を追い南湖の釣り場へ行く途中国府軍が機械で丘の上に大きな穴を掘って、戦死した兵隊を穴の中に投げ込んでいた。
南湖近くの丘の上に国府軍が機械で大きな穴を掘り、八路軍の戦死者を穴に投げ込み、ダビにしていた。戦死とは哀れなものだ、せめて、私だったら畳の上で死にたいものだとつくづく思った。 大きな穴の周辺には、おびただしい数の死体が散乱していた。満人達が、死体のポケットから何か品物を採り出したり、身ぐるみを剥がしていた。
我々シャオハイ達も、戦死体のポケットを探したが、何もなかったシャオハイの親分が皮のベルトを抜き取っており皆真似をしてベルトを集めた。
母に叱られた、死体から物を採ってくるとは日本人のすることでない、捨てなさいと怒鳴られ、猛家屯駅前の鍛冶屋に貰ってもらった。
鍛冶屋は革のベルトでローラーを回すので喜んでくれた。