私の釣りは、小学校へ入る頃、父に連れられて、ハヤ、フナ、ナマズを釣りに行ったことが始まりです。だから私の釣り好きは父の影響だと思っています。そこは満州国「今の中国東北地方」大来街(今は松原市)の近くを流れている松花江でした。
満州は日本と違って小川を見ることはほとんどありませんでした。
大雨の時に小川が出来ても、黄茶色の濁った濁流で、雨が止むと又、
道になってしまうものが多かったと思います。
父は金沢の近郊、水郷の木越だったせいか、水を見るや松花江で日本流の釣りを始めたのでしょう。日本から送ってもらった竹の継ぎ竿で釣りに行きました。前の晩には、缶詰の空き缶にハンダを溶かして錘を作り、トウモロコシ
の茎で釣りウキや糸巻きを作り、釣りの仕掛け等を作っていたものです。ある日、大きなナマズが釣れました。
父は柳の木に片手でつかまりながら悪戦苦闘しでいた姿が目に浮かびます。
このナマズは、一メートル程もあったでしょうか。松花江は、大ナマズが有名らしく、大来街の市場では屋根の軒下に吊るした大ナマズをよく見かけました。地元の満人たちはナマズの皮で靴を作って履いていました。
松花江のナマズはよく釣れました、ただし30㎝程のものが
多く、黄色みかかった、下ヒレがノコギリになっている「ギィュウギィュウ」という魚でした。
もっぱら照り焼きにして、美味しく食べていたことを覚えています。
父の転勤で国境の町、黒河へ。国境を流れる大河、黒龍江は、ロシア名アムール河、世界十指に入る大河です。
当時この河では筏の間からは、日本から送ってもらった竹の継ぎ竿でハヤを、投げ釣りで川鯛を釣っていました、ハヤは日本の川にいるうぐいと似た魚です。
川鯛は今私たちが海や、河口で釣っている、川鯛だと思いますが河口から1500㎞も上流なのにと思います。投げ釣りは今のようなリールではなく、錘に釣り糸をつけて、手で錘を持って振り回しながら遠くへ投げる投げ釣りでした。
棒の先に錘をつけて、投げるものでした。
父のものはこの棒が木刀で護身用も兼ねておりました。
釣りに行く前の晩や休みの日等は錘を作るため、缶詰の空き缶や、ハンゴウの蓋を、七輪の上に置き、ハンダや鉛を溶かし、粘土で色んな錘の重さの型を作って、ハンダを流し込み、ハンダが固まらないうちに、針金で作った糸結びわっぱを、ペンチで挟みそっと、まだ固まらないハンダに差し込み、ハンダが硬くなるのを待って、バケツで水を掛けて冷やして、粘土を取り除くと銀色に光った新品の鉛の錘が出来上がりました。私も父にうるさいと言われながら手伝って作りました。
川鯛釣りは投げ釣りです。投げ釣りの仕掛けは、今の胴付き仕掛けと同じです。錘の上につり針を五本程つけて遠くへ投げるのです。父はこの投げ釣り仕掛けを五組ほど投げ込んでいましたが、釣り竿の先竿に鈴を付けるのです。
北満州には竹はありません、柳の枝などしなりのある枝で作っていました。
鈴付きの投げ釣り仕掛けが、五組も並んだ光景は、つり好きの私にもどう表現すればよいか分かりません。
鈴がチリンチリンと鳴ります、チリンチリングィッと鈴付き先竿がお辞儀をします、小さくチリンチリン大きく鈴付き先竿がしなりました、サッと糸を手繰り寄せるとグッグッと「来たぞ」遠くの川底から魚がコツコツ、クックッと、手応えを体全体で感じながら両手で糸をたぐり寄せ岸に引き上げるとパタパタと跳ねる、何ともいえない満足感がしたものです。