空が白み少し明るくなってきた時、避難民が沢山いるホームに汽車がすべりこんだ、着いた所は孫呉駅でした。
此処で沢山の人が乗ってきて車内は通路まで人と荷物で溢れ・・・人々の蒸し息で暑く、子供たちがあちこちで愚図ついていました。
そんな時父がが無線機を背負い窓から覗き込んで手に持っていた食べ物を私達に渡しながら俺は「此処孫呉の部隊に入るからな」ぐったりしているボクを見ながら・・・「母に子供達を頼む」と言って行ってしまいました。
知らなかったのですが、父はこの同じ汽車の最後尾に乗っていたのです。大変母は心強い思いをしていました。
しばらくして父がまた、窓から覗き込んで、連れてきた医者が(朝鮮人)ボクを診察していました。父と医者は朝鮮語でひそひそと話していて、父が母に「清衛は駄目かもしれない」と云っていたそうです。
そして、清衛が死んだら、皆の迷惑にならないように、捨てなさい、と言ったそうです。
その時、村井黒河省長か、正岡警務庁長かどちらか覚えておりませんが、母に「宮岸君は預かりました。自分も同じ部隊に入りソ連軍と戦います・・・。」と敬礼をして去って行きました。
父の黒河警察は孫呉縣公省に入り軍の指示を待ったそうです。
孫呉駅からは沢山の人達が乗り込み私達の座席にも大人二人が加わり、昌子は向かい座席の老夫婦に代わる代わる膝に抱いてもらいました。
ボクは足元の座席の下に寝かされたが、愚痴も言わずずっと黙っていました。
母が時々下を覗きこんで、名前を呼んだりしていましたが、か細い声でやっと返事をしていたそうです。
沢山のリュックや荷物は男の人達が網棚に工夫をして板を何枚も渡してその上に荷物等を置き縛りつけていました。
おかげで、ボクは座席の下でゆっくりと休めたのでしょう。
列車は小興安嶺の裾野をあえぐように真っ黒い煙や蒸気で大きな音で吐きながら、南へ南へと走っていた時、列車が急停車し、男達が列車から降りろと叫び、男の人たちは列車から飛び降りる人たちを下で受け止めていました。
ソ連軍の飛行機です、列車の上を何回も旋回して時々ダダダーン、バリバリバリバリと機銃掃射をしてきました。
母は向かいの老夫婦と相談して昌子と清介をその人たちに預けて母とボクは動ける状況でなくもう一人清彦は手足まといになると申し出て、列車から退避しないことにしていました。
老夫婦は二人を連れて列車を降りて退避しました。
ソ連の戦闘機は列車に機銃掃射は加えるが退避する人にはまったく攻撃はしません。
2~3時間程も退避は続いたでしょうか、清介と昌子は皆が列車に乗ってしまった最後に現れました。
老夫婦と四人で遠くまで避難して遊びながら帰ってきたそうです。
とても楽しかった様子が目に焼きついています。
老夫婦よありがとうございましたと母はもう名前は忘れたと云っていました。
死者は十人ほどだったそうですが、列車には穴が沢山空いただけで、動けなくなった車両はなかったようです。
老夫婦は母に、膝に抱いている昌子を欲しいと嘆願しましたが、どうしても返事が出来なかったそうです。
今を思うと、あの時昌子を渡していれば今は生きていたかも知れないと思い、悔やんでいた時もありました。
のちに新京で老夫婦二人とも病気で亡くなったと聞き、今は忘却の彼方です。
母にはすでに長女(万里子)を生後9ヶ月で養女に出しています。古北口(万里の長城のふもとの街)で同じ警察官で愛媛県宇和島市の高木幸一さんへ。