黒河(満州国)からの逃避行物語

僕は時計の修理屋さん

ある日土足で侵入してきたソ連兵とボクが隣の部屋で汚い軍服のポケットから取り出してチャブダイの上に腕時計を沢山並べて何かしていました。

略奪した 腕時計を 腕だけでは 足らず 足首までも はめていた。
略奪した 腕時計を 腕だけでは 足らず 足首までも はめていた。

ソ連兵はマンドリンと手榴弾を部屋の隅にやり、やおら靴下(ソ連兵は靴下を履いていません、靴下の変わりに煮しめたような色の綿の布を足に巻きつけていました)を脱いで足の指で腕時計の数を確かめていたようです。 あとで分かったのですがソ連兵は時計の数の勘定が出来なかったのです。 ソ連兵は汚れた、垢で光った綿らしき、キルデングの軍服の腕をたくし上げて、幾つもの腕時計を刺青をした毛むじゃらの腕に巻きつけ勝ち誇っていました、刺青をしたソ連兵は囚人だったそうです。

ボクは時計一つ一つを耳に当てて腕時計をより分けてました。

動いているものと、止まっているものを。そしてねじを巻くもの、裏蓋をまくるもの、ソ連兵の大きな大きな指とボクの小さな指で沢山の腕時計をいじくりまわしました。

その内、ボクは幾つかの腕時計を塵かごに捨てていました。

この塵かごに捨てた腕時計がこれからのソ連兵の略奪から私達を救ってくれました。

ボクは塵かごに捨てた腕時計の壊れたものを男物、女物、皮ベルト、金、銀ベルト、文字盤の数字物、文字盤の簡略化した物等に区分して再生していました。

再生には此処の奥さんが忘れていった針箱にありました、握り鋏、目打ち、爪きり、刺繍糸、バイヤステープ、ビーズ等でした。

特に刺繍糸とバイヤステープ、ビーズはベルトの切れた腕時計をブレスレット時計に変身させました。

ベルトのない、腕時計が多かったのは日本人が腕にはめていた時計を強引に引きちぎったためでしょう。

こんな時計屋のような事をボクがしていました。次の日からソ連兵が単独でも多く来るようになりました。

ボクに時計を治してもらうためでしょう多い日は5人程も来ました。時計直しはネジを掛けることが、主で、あとは、壊れたものを塵かごに捨てることのようでした。

こんなソ連兵もいました、大きな柱時計を持ってきて清衛に直せと詰め寄り、黒パンを丸ごと押し付けて、母達の処えもきて、クロパンを受け取れ、子供に時計を治させろと迫りました。

ボクはおびえながらも、柱に釘を打ち、時計を垂直に下げて、ネジを巻いていました。

柱時計は動きましたが、時報は打ちません、時報のネジを巻きました、打ちました、でも3つ、ソ連兵はにこにこでした。

でもそれからが、大変でした、時計の文字盤はギリシャ数字でした、ソ連兵は知るはずもありません。どうしても文字盤が気に食わないらしく、さかんに、清衛に直せと言っているように見えたがボクは分からなく困惑していました。

ソ連兵の声は大きくなりました。清介を抱いていた吉野さんの奥さんが遠くから清衛に紙を小さく切って数字を書いて文字盤に張りなさいと指示をしていました。

でもボクは分からなかったのです。

でも清介と昌子は分かったらしく、紙と鉛筆で、時計の数字を書いてボクに文字盤に張るように指示し清衛は文字盤に12、3,6,9を張りました。

ソ連兵が忘れた 手榴弾と自動小銃
ソ連兵が忘れた 手榴弾と自動小銃

ソ連兵は承知しません、全部貼れと、全部出来ました。

ソ連兵は時計を抱えていそいそと、帰って行きました。 マンドリンも手榴弾も忘れて。厄介な物を忘れて行きました、皆で相談しましたが、触らぬ神に祟りなしにしました。 終戦から1週間程の間に北安の省公省官舎の日本人家族は、ソ連兵の略奪や強姦を受けて今日もまたか、と戦々恐々としていました。 私達の家に略奪に押し入ってソ連兵が忘れたマンドリン(自動小銃)と手榴弾は次の日も取りには来ませんでした。それで水野さん、吉野さんと相談して、忘れ物は縁側の外に置きました、隠して見つかれば大変なことになると考えたのです。大変なことになると判断した隠し場所は、縁の下、屋根裏、押入れ、タンス等でした。見つけられたら即、銃殺でしょう。この1週間程の間にボクは腕時計を10個程も自分の物にしました。鉄条網の中の日本人の生活今度はソ連兵に変わって満人(満州の中国人)が3から5人組で家に押し入り、押入れを開けたりタンスの中のものを引きずり出して持って行きました。でも満人に対しては日本人の奥さん方は抵抗しました、片言の満語で。だんだん満人の強盗は頻度を増し、たまらずに私達日本人はソ連軍に助けを求めたところ、来てくれました。ソ連兵2人が空に向かって空砲をパリパリと撃ちながら官舎を巡回してくれましたが、その状況は大きな魚が鰯の群れを追ってるようなもので、ソ連兵が行ってしまうとまた、何処からともなく満人は現れました。でも大きな声を出せばソ連兵が来て満人を追っ払ってくれました。しかし、その間げきを縫って別のソ連兵がウォッチ,ウォッチと来ました。今度は、満人とソ連兵が交互に略奪にくるようになりました。

天秤棒で野菜を担いで私たち日本人に売りに来ました。
天秤棒で野菜を担いで私たち日本人に売りに来ました。

満人のおばあさんの物売り(食べ物)が天秤棒を担いで籠に野菜などを売りに来ました、私達外出が出来ない人たちにとって、とても便利な存在でした。

 

 

時には外界の状況も知ることが出来ました。片言の日本語と満語(中国語)で身振り、手振り聞きました。

でも、便利な満人の物売りもお金ではなかなか品物を売ってくれません、負けた国のお金なんか値打ちがありません、日本人が持っている品物が欲しいのです。

鉄条網越の満人の物売り
鉄条網越の満人の物売り
上が満州国紙幣(1946年日本人が帰国するまで通用していた。) 下の赤が蘇連軍司令部発行の軍票(1946年4月以降は不通貨に)
上が満州国紙幣(1946年日本人が帰国するまで通用していた。) 下の赤が蘇連軍司令部発行の軍票(1946年4月以降は不通貨に)

特に時計や貴金属です、簡単には指輪やネックレスや金や銀やプラチナです

指輪1個と白菜3個となど。母達は3人の指輪や貴金属や売る物を出し合いました。

腕時計や宝石・金細工物を示し欲しいものを要求すると、品物はすぐ持ってきました。

タンス等大きな品物を物々交換に出すと、すぐ、何処からともなく、タンスを積むための荷車が現れます。これには驚きました、ちぁんと組織化されていたのです。

終戦から10日程すると侵入してくるソ連兵が変わってきました、日本語も話しました、片言でしたが、ウォッチは変わらず要求しましたが、お金を払うのです、ソ連の軍票です。

 

 

赤や青色の軍票を支払った。 彼らは、ゲーペーウーと呼ばれて、日本で言うと警察と憲兵を合わせ持った権力者だったのです。

服装も全く違っていました、威厳ある軍服を着ていました。しかし人の子ですウォッチが欲しいのです、ボクが腕時計を持っていました、ボクを頼りに何人もゲーペーウーが来ました。

ボクは赤い10円の軍票を札束にして受け取っていました、お金持ちになっていました。

通用するかしないか分からないのに。当時は満人もいやがったが十分に通用しました。

一般の汚いソ連兵はゲーペーウーをとても恐れていました。

聞いたことですが向かいの官舎の奥さんが強姦されたとき泣き叫んだそうです、すると丁度巡回中のゲーペーウーに見つかり、その場でソ連兵2人をピストルで射殺したそうです。

流言卑語とばかりと思っていたことが真実であることが多く、ソ連軍、満人、日本軍脱走兵、入り乱れた略奪、強姦等が私達を戦線恐々とさせていました。

昭和20年9月初め頃です、侵入して来るソ連兵の軍服は色々と異なり、侵入の仕方も異なってきました。こんなソ連兵もいました。

少し長めの戦闘服を着て銃はマンドリンではなく、長い長い狙撃銃です。500M先の日本兵も倒したそうです。

ロシア人もいましたが蒙古人等黄色人種の朝鮮人、中国人もいたそうです。彼らとて日本人に対しては略奪、強奪、強姦はソ連兵そのものでした。

ただロシア人のソ連兵は満人と日本人の区別がつかなく、単独で歩いていたりした満人の女も沢山強姦したそうです。

日本人自身を収容するための鉄条網をソ連軍に一般の日本人が作らされたのです。ソ連軍からの脱走日本兵は鉄条網の外で多く射殺されていました
日本人自身を収容するための鉄条網をソ連軍に一般の日本人が作らされたのです。ソ連軍からの脱走日本兵は鉄条網の外で多く射殺されていました

ある日官舎に残っている日本人の男たちがソ連軍司令部から使役に狩り出されました、ソ連兵が一軒一軒官舎を見回り男狩りをしたのです。

 

 

日本軍から脱走した兵隊も沢山いました。

鉄条網は、日本軍が捕虜になり、ソ連ヘ連行される途中脱走して日本人居留地に逃げ込むのを防止するためのものでした夜中になるとマンドリンの銃声がよく聞こえたものでした。

軍服を着ていた人もいました。

使役の労働は鉄条網張りでした。私達が避難している官舎は北安街の郊外にあり、その官舎を取り巻くためのものでした。ただ市街地に向けては門も大きく口を開けていました。

そこからは官舎への出入りは自由に出来ました。

鉄条網は日本軍が捕虜になりソ連へ連行される途中脱走して日本人居留地へ逃げ込むのを防止するためのものでした。夜中になるとマンドリンの銃声がよく聞こえたものでした

朝になると手をロープで縛られ何人も数珠繋ぎにされた日本兵の捕虜をよく見かけました、なんとも哀れでなりませんでした。  鉄条網張りの使役に狩り出された男達の中で若くて丈夫そうな人たちは帰って来ませんでした。 私達が北安の避難住居を離れるまでには、帰って来ませんでした
朝になると手をロープで縛られ何人も数珠繋ぎにされた日本兵の捕虜をよく見かけました、なんとも哀れでなりませんでした。  鉄条網張りの使役に狩り出された男達の中で若くて丈夫そうな人たちは帰って来ませんでした。 私達が北安の避難住居を離れるまでには、帰って来ませんでした

きっと、ソ連軍の捕虜になりシベリア送りになったのでしようと私達は話していたのです、気の毒なことをしました、日本へ帰った人はいたのでしょうかね。

でも脱走兵はその後も官舎の中に新たにもぐり込んでいたらしいです。

私達が仮住いしてる家主の若奥さんとその、母親は私達、子沢山の騒がしさを嫌って、高官の官舎に行きました。

高官の官舎にはよくソ連兵が、侵入していました。そこの若奥さんの母親は45歳位でしたかね、ソ連兵からの強姦防止の偽装もしなかったらしく、真っ先にソ連兵から強姦、輪姦されたそうです。

若奥さんは、脱走日本兵2人を、かくまい、安全を確保した、つもりが、この脱走日本兵に強姦されたそうです。

その後脱走日本兵は居なくなったそうです。

この家にはお上さんと女中がいましたが、泣かせる子供がなく、自分の身を守る為の、偽装はあまりしなかったらしく、この家の女達はソ連兵達の犠牲になったそうです。

また若奥さんは後に、自殺したそうです。

ソ連兵の強姦、輪姦の常習は、3人ぐらいで組になって、日本人住宅に侵入して、目標の女がソ連兵の要求に応じようが、応じまいが、強姦してしまう手口だったようです。

ボクは見ました

ボクは見ていました。黒河小学校6年生の大柄な太った女の子が官舎の近くで遊んでいると、2人のソ連兵に手を引っ張ぱられ、空き官舎の縁側に連れてゆかれました。

大きな泣き声がしたのでボクが覗き込むと、女の子は裸にされ、強姦されていました。

あんまり泣き叫ぶので、2人目のソ連兵が終わったあと、銃剣で下腹や胸を突き刺し殺してしまったようです。

体は一人前の大きかったでしようが、性器の発達はまだだったでしょう、さぞ痛かったでしょう。ましてや大きなロシヤ人です。これはボクが新京に行ってから男と女の行為を見てから知りました