私たちが住んでいた日本人市電官舎は30戸ぐらいの戸数だったと思う。 日本人は5~6家族ぐらい。 ソ連軍は戦利品を母国へ輸送するのが忙しく、撤退を開始したのか少なくなってきた。、 ソ連軍が少なくなると、国府軍(蒋介石)と共産軍(毛沢東)の内戦が表面化してきた。 満人達の生活も脅かされ何処から来たのか私達が住んでいる官舎に住み付き始め賑やかになってきた。
父は官舎の管理人の満人に頼まれて、電気の付かない部屋に住みついた満人の部屋に電気が付くように工事をして重宝がられていた。
私も手先になり手伝わされた。おかげで、父からは電気を触る時は絶対に素手(絶縁する)で触るな、両手で触るな、足元が濡れた状態で電気に触るなと厳しく教えられた。
電気工事には猛家屯駅前(現在は南長春駅)の鍛冶屋で自転車の車輪で一輪車を作った時のタイヤのチューブを絶縁手袋にしていた。
それは電線を繋ぐときの絶縁物に使い重宝した。
満人達が増えると電気のソケットがない部屋も沢山あり、ソケットの調達が私の仕事になってきた。父は満人達を集めてソケットと電線を持ってくるように話したが、買うほどのお金も無いようなので、旧日本人の軍官舎に床板を剥がして燃料にした、官舎へ行けばまだ天井にソケツトが付いている部屋があるはずだから、外してきなさいと満人に指示していた。
満人達はソケットの外し方も解からないと言い出し、私が案内して、ねじ回し(ドライバー)の使い方から教える始末だった。 ねじ回しも一つしかなく、父は官舎の管理人がボイラーを焚く場所で、釘を赤く熱して、叩いて水で冷やして、焼きを入れ堅くして、ヤスリで削りマイナスドライバーの形に仕上げ、木を削り二つに割って、釘で作ったドライバーを挟み、握り手を作った。 父は自家製ドライバーを、満人達に渡していた。 鉄に焼きを入れることを、私は猛家屯の鍛冶屋に教えてもらったが、父が鉄に焼きを入れることを知っていたとはさすがだ、と感心した。
私は満人を3人連れて旧日本軍官舎の空き家に入り満人の肩車でソケットを外し、コードもそのまま外した。満人達も面白がって10個以上も外してきた。電球は満人達に買わせるため、私が満人たちに付いて行き60ワットの電球を買わせた。 父は満人に電気とは恐ろしいもので、死ぬことがあるから絶対に触ってはだめだと教えて、満人に電気の線を両手で持たせて感電させて驚かしていた。満人達は怖がって電気の線には近づくことも恐れていたようだ。
何処から聞いてきたのか満人達が電気を取り付けてくれと、頼まれるようになり、遠くの一軒家までも電気を付けに行った。父はソ連軍に再度捕虜になることを恐れていたことと、体力も十分回復していなく工事には行かなかった。
私が満人と一緒に現場へ行き見てきて、父の指示を受けて私が満人と出来る工事だけをした。被覆電線はソ連軍が戦利品として、輸送途中の貨車から下ろした、リヤカーに積んで持ってきたものが役に立った。
当時の被覆電線はゴムで希少価値だった。今はビニール絶縁被覆であり、修理にはビニールテープを使うが、当時は自転車のチューブが最適だった。 片線だけチューブを細く切って電線に巻きつけ、たこ糸で縛るだけ。 表道りの満人の家には電気が付いていた。後ろの家にはあまり電気が無かったようだ。今考えると一軒家に付ける電気は、全て盗電だった。無政府状態だから無理からぬことだったのか。
東洋人で黄色人種の子供の泥棒集団(子盗児(ショウトルズ))は遊びと収益が楽しみだった。盗電は被覆線がなくなり、満人達の頼みを十分満たすことが出来なかった。 満人達からの電気を付けてほしいと云う希望に応えるため、父と知恵を出し合った結果、3つの方法があった。第一は軍官舎の偉い人が住んでいた官舎の電話線(裸線)と碍子を外す。
第二は屋内の電気の被覆線(単線で碍子があった)を切らずに長く外す。
第三は電柱から電柱へと架線してある電話線を切り取る、碍子も外す。満人には電気の線と電話の線の区別が全く分からず、私の中国語の力では説明出来ず、父にスケッチ図と言葉で書いてもらい第三番目の軍官舎の空き家での取り外しが一番多かった。私は実際の作業はしなく指導・命令をしていた。今思うと滑稽だが、当時は真剣そのものだったと思う。
満人は梯子持って来て、電信柱や家屋に立てかけて私が電信柱に登り線を切った。あとは満人が碍子を外し、銅線を巻きとっており、私は監督をしていた。
満人は電話線でも、電気の線でも絶対に触らなかった。
父が感電は怖い事を教えてあり又、日本人が過去に満人に対し、電流を身体に流して拷問をしたことがあり、電気が怖いことを知っていた。
電気を欲しがった満人は大通り裏の家か、ぽつんと離れたレンガ作りの一軒家だった。
レンガ作りの家には材木を使ってないためレンガを一個抜いて家に穴を空けて、碍子を付けた木材を、レンガを抜いた穴に差し込み電気の線も同じ穴に入れて泥を隙間に詰め込んだ。この方法は失敗した。
レンガを抜いた穴に碍子の付いた木材を突っ込み、電気の線も離して2本入れた。その隙間に泥を埋め込むと線と線は絶縁されずショウトしてしまった。白い煙が出て満人達はビックリして逃げ出した。
隠れ家へ帰って、父に話した。父は考えたすえ、細い柳の木の芯を抜いて電線を通すか、トウモロコシの茎の中をくり抜き電線を通せば絶縁出来るからと習い満人に両方を作らせた。いずれの方法も成功した。
タイヤのゴムチューブが無くなり絶縁材料に苦労した。柳の枝を切り取り持って帰ると父が芯を抜いて筒状にしてストーブで乾燥してボクに持たせた。
満人達も絶縁体が何であるか少し理解をして、色んな品物を持ってきた、犬の皮・馬の皮・ブタの皮ボクは大丈夫と判断したが父の意見は異なり、皮は水分を含むと柔らかく膨らんで、導体になることを、教えてくれた。でも皮は充分に水分を吸収すれば、食料の代わりになることも教えてくれた。
日本だったら竹を使い電線を通すだろうが満州には竹はありません。だから釣り竿も竹ではなく、泥柳の木で作った自家製の竿を満人は使っていた。
竹のように長いものはなく竹はボクにも満人にも不思議なものだった。
ソ連侵攻前、満人の子供たちと遊んでいるとき、満人の子供が柳の木で作った弓を持って来て私も一緒に遊んだ。次の日私は母が使っていた、日本の着物の竹製の、「えもんかけ」を弓にして満人の子供達と遊び、弓矢を遠くまで飛ばして遊んだ記憶が鮮明に思い浮かんだ。
満人の大人たちも不思議がって竹の質問していたが、私にも竹の知識は乏しく又中国語も堪能でなかったので上手く説明出来なかった。
日本から送って貰った竹の釣り竿を見せて魚を釣る竿だと説明したが理解したかどうかは分からなかった。