石炭を沢山堀り、ソリで引っ張って帰えり道、道路の所々に氷は無くあえぎあえぎ、ソリを引っ張って、踏み切り番の家の前で休憩してると家の中からタイタイ(奥さん)が出てきて
「そんなに沢山石炭を積んだら重たいでしょう、少し置いて行きな」と言ったのでしぶしぶ麻袋(南京袋)のぶんを家の中へ持って入り暖炉の近くの石炭置き場に入れて帰えろうとすると、幾らだと聞かれたので、チェン(お金)不要、と答えると、では晩飯(ワンファン)を食べて行けと言い、私はうなずきました。
私がひもじい思いをしている餓鬼に見えたのでしょう、間違いありません。
服装からも餓鬼に見えたのはあたりまえの子供の乞食の服装だったからです。
タイタイは私に命じました、暖炉(釜・オンドル)とストーブに火をつけて燃やせと、私は石炭ガラや灰を暖炉とストーブから取り出し、掃除をして新しい石炭を入れました。
廃油の固まりを石炭の上に載せてマッチで各々に火をつけたところ、たちまちに、石炭が燃え出したので、タイタイはびっくりして、質問攻めにあいました。
そこへジャングイ(旦那)が帰ってきてタイタイが私のことをきめ細かく説明したようです。
ジャングイは私に向かってハオハオ(好好)言ってくれて、いろいろ身の上話を問われたが、私は日本人だとはいえませんでした。
日本人だと迫害を受けるような思いが身にしみ込んでいたのでしよう。
満人は私が知恵遅れの満人に思えたのでしょう、言葉が片言であり、外套は満服のキルディングでした。
垢で、こぺこぺした物だったからでしょう、これらの服は父の親友の満人の警察官「王影遊(ワンケイユウ)」に貰ったものでした。
がやがやと子供達5人が入って来ました。 各人が私をじろじろと見ていたが、一人一人ジャングイに何かを報告していたようです。 肩から掛ける箱のようなものを、タイタイに見せて、お金をジャングイに差し出していました。 子供達はタイタイに言い付けられてお鍋から、フライパンから食べ物を大きなお皿に盛り付け大きなテーブルにどんと、置き、取り皿を各人に配り、箸は束にして持ってきたものを各人が取り、お汁も各人が自分で茶碗に満たしていました。
私もタイタイにうながされて、食べる用意が出来ました。
ジャングイが大きな杯にお酒(白酒)を注ぎ説教?を始めました。 子供達各人の利益が少ないぞ! もっとどうすれば稼げるか一人一人に質問をしていたが応える子供はいませんでした。 次は私の番です、石炭に火を付けるのが上手だったと、油の氷で上手に火をつけた。 明日も石炭堀に来るのだったら寄ってゆけと言われ安堵したものでした。
ジャングイに油の氷の説明をさせられ、自動車の修理工場の要らなくなった油も氷っていれば、使える又鉄道のレールの枕木も良い炊きつけですと言い、
外へでてタガネで枕木の端くれを少し取ってきてストーブに燃やして見せました。
枕木は油に漬け込んで油をしみ込ませ、枕木が腐らないようにした木だから良く燃えるのだと説明したらジャングイ・タイタイ、子供達も関心していました。
ご飯は高粱(キビ)を精白した餅キビのようでした。
大皿には野菜の炒めたものと骨のついた、色んな形をした、どんな動物の肉が付いた骨かわからない油揚げでした。
スープは厚い豆腐の油揚げが入ったあっさりとした味だったと記憶してます。
ご飯の跡かたずけは子供達の仕事でした。
帰りには骨付きの油揚げを包んだ大きな紙包みを病気の父に食べさせなさいと、ソリの上に載せてくれました。
帰ったときは日が落ちて真っ暗でしたが、父や母もあまり心配している様子はなく、骨付きの油揚げの肉の方が嬉しかったようです。
私が帰る時にジャングイは五右衛門風呂を私に自慢しながら入いろうとしていたが何とも危なっかしいようすでした。五右衛門風呂の目的はもう一つありました。 五右衛門風呂に入るのに皆が苦労していたので、私が拾ってきた日本の下駄をはかせて風呂に入るよう勧めたところタイタイも子供達もとっても喜んでいました。 どうしてお前は何でも知っているのだと、子供達に尊敬されるようになり、浮浪児もどき、仲間になり、色んな悪巧みを覚え又させられました。
五右衛門風呂でパンを焼き(今のナンでしょうか?)タイタイが子供達に指示をして、子供達は首から吊るした箱に入れて箱の周りに暖かい布団を巻いて冷めないようにして売りに出されていました。 三人の子供が常時売りに出ていました。子供達は毎日人数が代わり出入り、入れ替わりが激しかったようです。 仕事のない子供達はジャングイが何かを命令していました、その一つが元日本人の住居に入り電球を盗んでくること、と二股ソケットを盗んでくることでした。
ボクには電線を切ってこいと命じました、他の子供達は感電して怖い目に遭っているらしく誰も嫌がって電気の線は怖いものだという様子でした。
踏み切り番のジャングイ(旦那)は他の人たちからは、チャン朋友と呼ばれていました。
朋友(ポンユウ)=友達のことです。チャンの漢字は覚えていません。
チャンの家は基本的にはレンガ造りでした。
玄関(入り口)は枕木で風除室を作り便所と豚小屋に繋がっていました。煙突は2本、屋根は土瓦のようでした。
枕木で作った風除室は枕木の隙間を土で埋めて、戸はベニヤ板で作った軽いもので便所の窓は扉を横にした物で何時も少し開いて、明かり取りと臭い出しにしてありました。 トイレットペーパーはありません、新聞紙があれば最高のトイレットペイパーです。 煙草の葉の干したもの又はトウモロコシの実の皮の干したものを便所の壁の周りに掛けてありそれでお尻を拭くのです。
便所のウンコだまりは豚小屋と通じており、ウンコは豚が食べてくれます。 豚はウンコを食べると、胸焼けがしなくて、豚の体調に良いそうです。 満州の豚は黒色です、日本の豚は白色でビックリしました、国が変わると豚の色まで変わるとは。
踏切り番のチャンジャングイ(旦那)にはボクが引き揚げ列車に乗るまで大変世話になった中国人でした。