装貧弱な日本軍は攻撃には出ず、また、ソ連軍戦車も攻撃せず砲を我が陣地にむけたまま通過していた。こちらが攻撃をすると、戦車は我が陣地に一斉に砲撃した。まったく昼間は手が出なかった。
17日、下の道路を行く敵戦車を攻撃する、武器は我が中隊には少なく、他の隊が攻撃を加えると十倍くらいのお返しが飛んできて、我が砲は沈黙せざる得ない状況だった。
日本側が攻撃しなければ、ソ連軍も攻撃はしなく、奇妙な戦争だった、ただ友軍の野砲・山砲や加農砲は徹底的に潰されていた。
そんな時佐々木さん(黒河、南崗屯の官舎右隣り)が「俺を撃ってみろ、俺は今年、付いているのだ、4人目が生まれ子は男だったから嬉しいのだ!」と叫んで豪の上に飛び乗ったとたんに、砲弾にとばされ戦死してしまった。
佐々木さんは碁打ち仲間で、情報警察官の私の見張り役だったことを此の陣地で彼は父に打ち明けていた。
その話の中で「今年はいい年だから戦争に負けても俺は幸せになれる。」と、本気で話していた。
父たちは時々夜間斬りこみ隊を出したが損害ばかりで戦果は少なかった。
19日に連隊副官が来て、敵は白旗を掲げ軍使を来させるから注意し、撃ってはならぬと各中隊に伝達して回っていた。
敵は孫呉飛行場に居り、周りの陣地から包囲されている状態で、日本軍の勝利かと思った。しかし現状はそうではなかった。