清彦はハシカ以外にチフスも患っているらしく、痩せ細り、哀れに思い夫は大同大街の屋台の稲荷すし屋へ皆を連れて行き、清彦の最後の晩餐をしました。
清彦も稲荷すしを本当に美味しそうに食べていました。
(清彦の写真はない。内地へ送るも届かず黒河は写真撮影禁止区域。)次の日昭和20年11月12日に清彦は清介と二人で寝ていましたが、誰にも看取られることなく、死んでいました。骨と皮だけの軽い亡骸でした。 たった二年強の命でした
あくる日、皆で昌子を埋めてある横に、氷ついた土を掘り起こして一つの土饅頭にしました。
王 影遊にお金を貰い医者にも見せたがすでに手遅れであり、王 影遊にお金を貰ったので子供達を医者に診察してもらっても薬は無かったそうです。
そこで親たちは出来るだけ食べたいものをと努力しました。
毎日の食事は、朝晩とも高粱が主食で、柔らかくお粥にしていました。おかずは、殆ど無く塩汁に大豆をつぶして道端の草や飲食店の裏口に捨ててある菜っ葉の切れ端でした。
夜になるとストーブをガンガン燃やして皆裸になってシラミ取りです。
下着の縫い目にはビッシリとシラミが入り込んでおり、これを爪と爪でつぶしストーブの上で払い落とすとパチパチとシラミが弾けました。
小沢さん親子も何処はばかることもなく裸になってシラミを取っていました。
清介は衰弱しきっており近くに置いてあるブリキのおまるに座ることも出来なくなり母は時々痩せ細った身体を暖かい布で拭いたりさすつていました。 父ははもう駄目だとあきらめたのか、親子4人でまた出かけました。ボクは此の時が嬉しくて、妹弟の最後の晩餐だとは思ったがしかし嬉しかったです。父が清介を背負い天幕の屋台の稲荷すし屋に入りました。稲荷寿司を食べさせました1個は食べましたが、それ以上食べる 元気はありませんでした。