そんな暮らしをしていたある日、沢山の出店がある中、母の売っている大福を買いに満人の子供が母親の手を引いて現れました。
“王(わん) 影遊(けいゆう)”の妻(満人警察官)が・・・アイヤー宮岸(くんあん)タイタイと抱き合いました。
お互い日本語、満語は十分には話せませんでしたが、心は通じて涙の再会でした。
その日の夕方夫は、大同大街で一台の馬車(まーちょ)に向かって“王 影遊”・“王 影遊”と叫んだそうです。
王 影遊は長春南警察署長になっていました。
王は夫が満州国警察官になったときからの大の朋友(ぽんゆう)(友達)であり、古北口国境警察隊時代、結婚前からで、お互いに結婚式、披露宴には招かれていたそうです。また夫は彼の結婚に日本刀を贈ったそうです。
偶然にも同じ日に同じ大同大街で夫婦別々に“王 影遊”に合ったのです。
その夕方、警察官二人が馬車(マーチョ)で私達を迎えに来ました、病気の二人の子供も連れて王の家に迎えられました。
そこは元日本軍の幹部官舎でした。久しぶりの豪華な夕食を中華テーブルで頂きましたが二人の子供は、箸はつけるが、あまり食べられないようでした。病気のせいでしょうか。
子供達の衣類や布団まで沢山の冬装束を貰い、また1000円分の10円札の束をも貰いました 勿論まだ満洲国紙幣でした、天の恵みでした。
このお金で極寒の新京の三ヶ月を暮らすことが出来ました。
お金は早速石炭のストーブを買い、一斗缶のブリキのストーブに別れを告げました。ボクは石炭を調達しなければなりません、各家の前にある石炭箱から少しずつ石炭を盗んで来ることで暖かい暮らしが出来るようになりました。
石炭を買うことは困難でした。ボクは時々石炭泥棒で傷(叩かれ)ついていましたが、私達に石炭の不自由はかけませんでした。